第3話 その距離、剣より近く
初夏の陽光が、城都の街路を明るく照らしていた。
王女アリシアの慰問行列は、緩やかな速度で王都南部の職人街へと向かっている。
軒を連ねる織物屋や染め物工房の前には、飾り立てられた天幕が張られ、住民たちが沿道に整列していた。子どもたちは花を手にし、大人たちは帽子を脱ぎ、王女の馬車が通るたびに深々と頭を下げる。
「左側、異常なし。……先行部隊、予定通りの進行です」
馬上からそう報告するのは、ゼノ・グラナート。
整えられた姿勢のまま、視線だけを左右に巡らせながら、異変の兆候を探っていた。
けれど、彼の目が自然と捉えてしまうのは──
(……気にすることはないはずだというのに)
視線の先。王女の馬車には今日も文官補佐が同乗している。
セイル・クレイド。文官補佐──とは名ばかりの、今や実質的な「王女付き」のそば役。
王太子エドワルドの私的な裁量で選ばれたと聞いている。
出自は庶民。王立学園の首席入学者。──確かに才覚も人柄もあるのだろう。
(あれが、許される距離なのか)
ゼノから見た彼の位置は“近すぎた”。同じ馬車の中には侍女もいるのだから、二人きりというわけではない。でも、言葉を交わすには絶好の位置。なによりも、すぐに手が届く距離。
(このままで……いいのか)
そう思ってしまった瞬間、ゼノは自らの内に生まれた焦りに、ひどく動揺していた。
護衛の役目とは、彼女の安全を守ること。それ以上を望むのは、越権。分かっては、いる。それでも──
あの場所に、いたかった。
隣で、笑ってほしかった。
(……あいつが何者だろうと、関係ない。だが……)
意識の奥底で、何かが揺れる。
──気づけば、自分の視線がそれを追っている。
彼女の一挙手一投足を。その傍らに立つ男の所作を。近すぎる距離に対して、アリシアが何一つ嫌悪を示さないという事実を。
(それは、信頼か? 好意か?)
馬上にある身でなければ、額を押さえていただろう。考えすぎだと、自分に言い聞かせても、思考は止まらなかった。
「グラナート卿、中央の広場までは、あと十分ほどかと」
「……ああ。警戒はそのままに」
「……何か、気になりますか?」
「いや──」
答えながらも、目線はつい、王女の馬車へと向かってしまう。それを振り払うように同行する近衛の声に軽く頷き、視線を先へと向けた。
──だが、その意識の半分は、依然として“隣”の距離に囚われていた。
◇◇◇
先に馬車から降り、周囲に目を配る。同乗していた侍女の手を借りて馬車から降りたアリシアの半歩後ろに立つ。そんな青年の姿を、遠くからゼノは見ていた。その姿はあまりにも自然で、違和感を覚える余地すらない。少し前まで、その場所にいたのは自分だったはずなのに。
「……あれが、“文官補佐”か」
「書類仕事だけならともかく、視察にも随行するとは。ずいぶん便利な肩書きですな」
冗談めかしたその口調にゼノは笑わなかった。むしろ、その“便利な”立場が、自分にとっていかに手強いかを痛感していたからだ。
あれは、ただの文官ではない。王太子の裁量で、王女付きに準ずる権限を与えられた人物。
彼が侍女を通じて、何事かをアリシアへと告げる。彼女は微笑みながら、セイルに視線を返す。その瞬間、彼女の表情がやわらかくほどけたのが、ここからでも分かった。
(──ああ、もう)
視線を伏せると、足元には白い小花が咲いている。慰問先の孤児院。子どもたちのために王女が自ら足を運び、物資や薬を届ける姿は美しく、そして理想的な“姫”の在り方だった。だがその傍らにいるのは、自分ではない。
「グラナート卿。移動の指示がありました」
近衛からの報告に頷きながら、彼は小さく息を吐いた。護衛騎士として動くのは、もう何度目だろう。けれど、王女との距離は──遠くなる一方だ。
(──このままで、いいのか?)
誰にも聞かせられない問いが、胸の奥を掠めていく。そんなことを考えるようになったのは、いつからだったか。
子どもたちの輪に加わり、アリシアが笑っている。その傍に控える、文官補佐の青年。慎ましく、丁寧で、だが絶妙に親しい距離感。
──自分には、もう届かない位置かもしれない。
その想いが、心の奥で重く沈んだ。
けれどそのとき、不意に視線が交わった。
遠くにいたはずのアリシアが、ふとこちらを見やったのだ。
驚いたように、けれどすぐに穏やかな笑みを浮かべて、軽く手を振る。
それはまるで、ずっとそこにいたことを忘れていなかったと告げるような、やさしい仕草だった。
──そうだ、自分はまだ、見捨てられたわけではない。
そう思いたかった。
◇◇◇
護衛任務を終え、王女宮へ戻った夕暮れ時。すでに日が傾き始めた前庭で、ゼノは一人、無言のまま馬の手綱を引いていた。鉄蹄の音が石畳に淡く響く。頭上では茜色が広がり、影が長く伸びていた。
今日一日の慰問も、決して楽な行程ではなかった。何より、群衆の中を進むには“話しかけられやすい”立場であることが必須で、瞬時の判断と対応が求められる。
――だが、セイル・クレイドは、何の苦もない顔で、やり遂げていた。
「王女殿下、こちらへ」
「お気をつけて。段差があります」
「……失礼、代わりに受け取ります」
どれもこれも、自然で、的確で、隙がない。
剣ではなく、言葉と所作で守る。ああいう振る舞いこそが、“そば付き”なのだ。……そう思い知らされた。
(あれで……19歳、か)
そう自分に言い聞かせても、心のざわめきは収まらなかった。
悔しい、というのとは少し違う。だが、何かが胸の奥にある。
馬をつなぎ、厩舎を出たところで、ゼノはふと足を止めた。ほんの数歩、視線を先に向ければ、見知った姿があった。アリシアのもとを下がった後なのだろう。セイルは軽装のまま、帳簿の束を抱えて歩いている。
「……用件か?」
「護衛任務、お疲れ様です。……いえ、少し確認したいことがあって」
「確認したいこと?」
「はい。……明後日の予定で、礼拝堂の視察があります。同行者の割り振りについて、調整が必要かと」
「……調整は任せる。だが、視察当日は前に出る。必要があれば、そう伝えておけ」
即答したつもりだったのに、自分でもわかるほど声音に棘が混じった。
言葉にすれば、それは醜い嫉妬でしかなかった。
護衛として、あるまじき感情だ。
だが。
(このままで、いいのか……?)
その問いが、頭から離れない。
自分は何を選ぶべきなのか。
護衛であることに甘えて、ただそばにいるだけで満足していていいのか。
──否。
それだけでは、きっと、届かない。
「……調整はお前の仕事だ。俺は……前に、出る。それだけだ」
そう告げて、ゼノは背を向けた。
背後でセイルが何かを言いかけた気配がしたが、聞き返すことなく、そのまま歩き出す。
夕闇が濃くなっていく。石畳に映る影が、ゆっくりと伸びていた。
その足取りは、まだ迷いを孕みつつも──わずかに、けれど確かに前へと向かっていた。
(……このままでは、きっと、届かない)
けれど、それを超える術も、まだ──見えていない。

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