第4話 誰のための場所か
──これで、いいのか。
その問いかけに、明確な答えはなかった。
静かな午後の時間。王女宮に詰める近衛の使用する一部屋をゼノは自分の私室として使っている。
机は、簡素ながら堅牢。窓からは庭園が見え、控えの侍女たちの姿がちらほらと映る。柔らかな陽が差し、風がカーテンを揺らしていた。
けれど、ゼノの胸の奥には、穏やかさとは裏腹に、どこか落ち着かない焦りのようなものが渦巻いていた。
「……」
ゼノは立ち上がり、机の上に置かれた封筒にゆっくりと手を伸ばす。その動作すら、どこか慎重すぎるほどだった。
手に取った封筒の名前を確認する。書かれているのは、実家。グラナート公爵家当主──父、エルネスト・グラナート。封蝋も間違いなく父のもの。であれば、何を言いたいのかは分かっている。
「先日、断りを入れた見合いの件だろうな……」
父の言い分も分かっている。だが、彼自身にとっても譲れないものがある。とはいえ、もはや“護衛”という立場に甘えるには、遅すぎるのかもしれない。
護衛であれば、ただ守っていればよかった。理屈ではなく、剣と身体で。王命に従い、王女のそばに仕える。そういう職務の名を借りて、彼女の傍にいられた。だが今、それが緩やかに“終わろうとしている”という気配が、ある。
セイルという名の青年が現れた時から。いや──それ以前から、何かは、少しずつ変わっていた。
扉の外で、控えの侍女が誰かと低く言葉を交わしている気配がする。
そして、間もなく──軽くノックの音。
「……どうぞ」
「失礼する」
現れたのは、ロドルフォ・カザル。グラナート家家宰にして、ゼノの育ての親ともいえる男だった。
白髪混じりの髪を丁寧に整えた老文官は、片手に文書の束を持ち、紅茶の盆を持つ侍従を従えている。もっとも、侍従にはさっさと下がるように告げると、書類と盆を無言のまま、机の脇に置いた。
「ひと息、入れては?……“動く”頃合いだろうと思ってね」
「……頃合い、とは?」
問うと、ロドルフォはわずかに目を細めた。
「“己の名をどう使うか”を、真剣に考えねばならぬ年齢ということだ。若も、もう二十を過ぎた」
ゼノは、視線を茶碗に落とす。
この男は、いつもそうだった。言葉は多くなく、詮索もしない。けれど、その静かな視線は、彼の心の裡を鋭く見透かすように届く。
「……まだ、答えは出ていません。けれど──選ばねばならない時が、来ているのは分かります」
「なるほど」
ロドルフォは静かに頷いた。
「若は、よく耐えた。だが、私には見えている。そろそろ限界だ、と」
「……」
「率直に申し上げましょうか。若。あなた様が今、この場所にいるのは、“誰のため”でしょうか?」
一瞬、答えに詰まった。
「……俺は」
「お待ちください。まず私が見ている事実をお話ししましょう」
語気が強まったわけではない。しかし、その声音には長年家を見守ってきた男の厳しさがあった。
「若は、この数年で多くを積み上げられました。功績も、信頼も──そして、王女殿下との“並び”という、微妙にして決定的な立ち位置も。しかし、すべてを“護衛”という名のもとに積み上げてきた」
「……それが、悪いと?」
「いえ。ただ、それは“他人が決めた役目”である、ということです。あなた様ご自身が“何を為すか”を選んだ結果ではない。若、あなたはまだ、一度も“貴族としての矜持”で道を選ばれてはいない」
言葉のひとつひとつが、骨に染み入るようだった。
「……それを、選べと?」
「そうですな」
ロドルフォは持ってきた文書の束から1枚を抜き取っている。それは、彼に届いた封書とはまた別の父からの書状だった。
「父上は、何を……」
「一族の長となる“覚悟”が、まだ見えないと仰っています」
ロドルフォは書状をゼノの手へと渡す。
「若。“王女殿下の護衛”などという立場は、何の保証にもならないのです。“貴族”とは、その責任と対価を理解した上で、血と名を賭けて行動するもの。あなた様も、そろそろ剣を置き、“選ばれる覚悟”をお持ちいただかねばなりません」
静かな口調。だが、それは“通達”だった。
「……分かってる」
ゼノは小さく息を吐く。
「護衛でいる限り、選ばれることはない。だが、貴族として並べば、あの人を“選ぶ”ことになる。それが何を意味するのかも……」
「構いません。若が“王女殿下の傍に在りたい”と願われるなら、そのための代償は──一族が引き受けましょう」
「……代償、ね」
ゼノは、ロドルフォの差し出した書簡に手を伸ばす。
「……ロドルフォ」
「は」
「明日の昼、時間を取ってくれ。父上に返信を書きたい。俺自身の言葉で」
その声は、もう迷いを含んでいなかった。
◇◇◇
ロドルフォとの約束の時間が近い。
それがわかっているのに、思わず手が止まる。
“在るべき場所”が、誰のためのものなのかを、考えてしまった。
彼女のために在るのか。家のために在るのか。
あるいは、自分自身のために。
どれも否と切り捨てられず、けれど是とも言い切れず──書きかけた文を、ゼノはまた破り捨てた。
そのとき、扉が控えめに叩かれる。
「失礼します。グラナート様、カザル殿がお越しです」
「通してくれ」
すぐに入ってきたのは、いつも通りの家宰の姿。
「……手紙の返答が、まだのようですな」
ゼノが黙って頷くと、ロドルフォは部屋の隅に目をやった。そこには、破られた便箋の山。
「何通目です?」
「七通目だ」
「記録しておきます」
軽く冗談めかした口調に、ゼノは思わず息を吐いた。
「笑いたければ、笑ってくれ」
「いえ。むしろ安心しました」
「……?」
「悩むというのは、選択肢を意識し始めた証です」
ロドルフォはそう言って、卓上の便箋の山を一瞥した。
「私は、若が“王女の護衛”という立場を捨てぬのなら、グラナート家の嫡子としての器ではないと、見切っておりました。ですが──それ以外の道をみつけられたようですな」
「……戯れ言だ。俺は、ただ……」
「姫君の周囲は、まもなく様々な“色”で囲まれます。若が傍に在ることは、今や“例外”であり、かつ“特権”です。それを続けることが、本当に姫君のためなのか……若自身が、考えるべき時です」
「…………」
「ただ、“そこにいたい”だけでは、選ばれないのです」
その言葉に、ゼノの肩がわずかに震えた。
「……選ばれない、か」
ロドルフォは視線を落とし、手にした一枚の便箋をそっと卓に置いた。
「──家としての答えは、既に用意しております」
《覚悟を問う文言》が、堅い筆致で綴られていた。それは、“家の名”としての宣言。
だが、ゼノはまだ、それを手に取ることができなかった。ロドルフォが立ち上がる。
「──私は、常に若の味方です。ですが、“立場”を定めなければ、味方にもなりきれません。今夜中に、決めていただきたい」
「……ああ」
静かに頷いたゼノの背に、ロドルフォは一礼して去っていった。
残された室内。
破かれた便箋の山の中に、ゼノはふと視線を落とした。
(──俺は、どこに在るべきなのか)
まだ、答えは出ない。
けれど──
……俺は、本当に“立つ覚悟”があるのか。その問いが、破られた便箋の山よりも、はるかに重く感じられた。

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