第2話 名を呼ばれた者
その朝の控えの間には、ふたつの影があった。
ひとつは、壁際に控える青年。背筋を正し、気配を薄めるように、ただ静かに立つ。王女の動きを意識しつつも、決して目を向けない。
もうひとつは、書簡を手に立つ青年。手慣れた所作で、王女に何かを説明している。まだ若いが、落ち着いた声音はよく通り、聞く者の不安を和らげる。
「んー……わたくし、よくわからないのだけれど。これって、難しいお話?」
アリシアは眉を寄せて問いかけた。机の端に身を乗り出し、小首をかしげる様は、まさに年相応の少女だった。
「難しい内容は上の方にまとめてありますが、殿下には一番下の確認欄だけ、ご覧いただければ大丈夫です。……形式上のことでして」
「なら、安心ね。セイル、ちゃんと見ておいてね」
その声が、思ったよりも自然に響いた。
ゼノ=グラナートは目を伏せ、表情を崩さぬまま、その名が呼ばれた瞬間を静かに噛みしめた。
セイル=クレイド。王太子の裁量で採用された特例の文官補佐。庶民出身ではあるが、今では日々の学習や執務訓練にまで同行するようになった。
「午後は、王太子殿下のところへご挨拶ですよね。僕が付き添いますこと、承認をお願いいたします」
「うん。ありがとう、セイル」
また、名が呼ばれた。ごく自然に、ためらいもなく。アリシアはセイルのことを名で呼ぶ。その声音には、まっすぐな信頼が滲んでいた。
「グラナート様、こちらに今朝の予定表が届いております」
侍女が控えめに差し出してくる紙片を受け取り、ゼノは小さく会釈する。書面に目を落としながらも、思考の一部は、先ほどのやり取りに引き寄せられたままだった。
セイルとアリシア。そこにあるのは、あくまで節度ある距離感だ。文官と王女。けれど、彼女の言葉や表情には、どこか“あたたかさ”が滲んでいた。
(……俺は)
なぜ”ゼノ”とは呼ばれないのか。
彼女が自分のことを、セイルに対するように気軽に呼ばないことは、気が付いていた。だが、それを当然だという思いもある。
アリシアが王女としての教育を受けている以上、貴族家との距離感は自然に身につく。これは互いに傷つかないための礼儀であり遠慮ともとれる部分。もっとも、王族としての無意識の“線引き”も含まれているか。
そのことを分かっていたとしても、名だけで呼んでもらえない。
──そのことが、これほどまでに胸を灼くものだったとは思ってもいなかった。
◇◇◇
午後の陽が斜めに差し込む執務室で、王太子エドワルドは妹を迎えていた。
「アリシア、こっちへ。今日は久しぶりに、ゆっくり話そうと思って」
「お兄さまは忙しいと思ってたから、ちょっとビックリしたの。でも、嬉しい」
ゼノは、室内の壁際に控えながら、静かにそのやり取りを聞いていた。護衛としての立場に徹して、常に一歩下がり、視線を泳がせることなく王女の後ろに位置する。それが当然の務め。誰に命じられるまでもない、自らの選択だ。
だが──
「セイル、おまえも座っていい。今日の報告、直接聞いておきたい」
その一言に、静かな水面が揺れたような気がした。
「……はっ。では、失礼いたします」
文官補佐の青年が軽く礼をして、アリシアの隣に控えめに腰を下ろす。この場において、同席を許させることはまず考えられない。だが、エドワルドが自ら声をかけたのなら、それを否とする理由もない。
「ねえ、セイル。あの、朝の紙……どうなったの?」
「はい。あれから、すぐに関係先に回しました。王太子殿下のご確認が入れば、正式になります」
「そっか……よかった。じゃあ、お兄さま。よろしくお願いします」
アリシアの声に、エドワルドは彼女の髪をそっとなでる。妹が頑張っていることを誇らしく思っているのは間違いなかった。そして、セイルがその場にいることが当然のように見える。そのことがゼノの苛立ちを深くする。
信頼。親しみ。これは、今の彼からは決して踏み込めない距離感。
自分が護衛という役目に徹する限り、王女から名を呼ばれることなど、あり得ない。呼ばれないのではなく、“呼ばせてはいけない”。そうすることで、すべての均衡が保たれる。
……それなのに。
(なぜ、こうも落ち着かない)
名を呼ばれることが、こんなにも大きな意味を持つとは。それを教えられたのが、今朝のやり取りだった。
王女はセイルの名を呼ぶ。ためらいもなく、戸惑いもなく──まるで当然のように。
この部屋の主は、王太子エドワルド。アリシアの兄であり、そしてこの王国の未来を担う者。
そのすぐ隣に座るのは、妹である王女。そこまではいい。だが、その少女に“名を呼ばれている”青年がいる。
──セイル・クレイド。
立場は文官補佐。だが、今やその枠には収まりきらない存在となりつつある。
王女の日常に存在し、学習や執務の補助までを担う。政務に関する書類を共有し、兄と妹の場に同席が許される。
(……違うのだ)
ゼノは、心の奥で静かに言葉を噛み締めていた。
自分は、あの位置には立てない。そばにいることは許されても、踏み込むことはできない。
護衛という立場に徹する限り、王女から名を呼ばれることは──ない。それが正しい距離。それが、選んだ道。
けれど。
心のどこかで、微かな焦燥が燻っていた。
名を呼ばれたいわけではない。ただ、それを当然のように許される誰かの存在が、ここまで胸を灼くとは。
──変化の兆し、なのだろうか。
アリシアが13歳を迎えてからのこの数カ月。
公務の初歩に触れ、文官との関わりが増え、周囲とのやり取りも大人びてきた。それは、今までの少女ではない、という現実も突きつけてくる。
「王太子殿下、そろそろお時間です」
静かに入ってきた側近であるリュシアンの声に、エドワルドは静かに頷く。
「もう、そんな時間なんだね。アリシア、あまり話せなくて悪かったね」
「……う、うん。でも、また一緒にお茶をしてくれる?」
「もちろん。あ、セイル。相談したいことがあるから残ってくれるね」
エドワルドの声にセイルは黙って頭を下げるだけ。
「わかったわ。……じゃあ、セイル。あとでまたね」
軽やかにそう告げて、アリシアは立ち上がった。その背中を守るようにゼノが位置を取り、扉の方へと歩き出す。
その一連の動きは、三年間の蓄積からなるもの。もはや無意識に近い、護衛としての所作。
だが、その日初めて感じた“何か”が、ほんの少しだけ、歩調を乱した。
アリシアを中心に、隣に兄と文官。自分はその外側にいたことが脳裏に浮かんでくる。
どうして、自分は入ることができなかった。いや、入るというだけではない。それが許されもしなかった。このことが現実として押し寄せてくる。
だからこそ、あそこは、自分が触れてはならない世界なのだと。
あらためて、そう思い知らされる光景だった。
(……ならば)
この距離を、保ち続けるしかない。
けれど、それが本当に「正しい」と言いきれるのか──
ゼノ自身にも、もう、わからなくなりかけていた。

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