第1話 静かなる帰還

夏の気配が濃くなりはじめた王宮に、一つの報せが届いたのは、正午を少し過ぎたころだった。
──王太子殿下の命により、新任の文官補佐、セイル・クレイドを王女宮付きとする。
淡々と告げられたそれは、庶務課を、刹那にして凍らせるには充分だった。

「……は?」

最初に声を発したのは、庶務課の若手補佐官だったという。
無理もない。今まで見たこともない名前の文官補佐。配属先が王女宮。これで驚かない方がどうかしている。

だが、そんな庶務課の補佐官よりも動揺を覚えているのが──

ゼノ・グラナート。
“王女の護衛”であり、今や王宮内で最も“王女アリシア”に近いと噂されている存在。
その彼の眉が、わずかに動く。
ほんの僅か、けれど、それは明らかな“動揺”だった。

(……セイル、だと?)

その名を聞いた瞬間、胸の奥に沈んでいた記憶が、不意に浮かび上がった。忘れたことなど、一度もなかったはずなのに。

ありえない。
いや、ありえる。
だが、ここで?
このタイミングで、王宮に?

「……失礼。少々、外します」

控えの文官にそう言い残し、ゼノは廊下に出た。
涼しげな顔を装ったつもりだったが、手のひらにはじわりと汗が滲んでいた。

(まさか、本当に……)

三年前の記憶が蘇る。
王女誘拐という未曽有の事件の夜。暗い地下室、伸ばされた小さな手、その先にいた“彼”の姿。
王太子殿下が動けなかった時、代わりに選んだ一人の少年。

──セイル・クレイド。

庶民の出でありながら、王立学園首席合格。その名は、才気と信念の証として知られていた。
だが、あの時の事件は表向きは「禁術災害対処」で処理された。つまり、彼のことはどこにも記録されていなかったのだ。それなのに、今になって王宮へ現れた。それも王太子であるエドワルドからの指示として。

(殿下との間で……何かあった、というのか)

その瞬間、ゼノの中で何かが軋んだ。焦燥、苛立ち、そして……薄い、痛み。
あの日、王女を救ったのは自分だった。だが、最初にその手が伸ばされたのは――。
しかし、時間は容赦なく進む。
午後、王女宮の表門。静かに現れたのは、一人の青年だった。

控えめな外套を羽織り、帽子を片手に持ったその姿は、王宮の華やかさとは程遠い。だが──その眼差しだけは違った。
まっすぐに、門の向こうを見据えている。どこまでも真っ直ぐで、揺るがない光。

「……セイル・クレイドです。王太子殿下より命を受け、補佐官として参りました」

彼は、そう言った。まるで“今この瞬間が始まりだ”とでも言うように。

 

◇◇◇

 

午後の陽射しが、柔らかく室内に差し込んでいた。
ティーカップの縁に光が映えて、銀のスプーンがわずかに揺れる。

「……セイル」

控えていた女官が、手元の書簡を確認しながら丁寧に説明を続ける。

「はい。新任の文官補佐、セイル=クレイド殿。王太子殿下の命により、王女宮付きとして本日着任とのことです」
「そんなお名前、これまで聞いたことありませんわ」
「詳細は存じませんが、急な辞令だったようでございます」
「そんなに急に決まるものなの? でも……お兄さまがお決めになったのなら、そうなのかしらね」

アリシアは頷きつつも、妙な引っかかりを覚えていた。

──セイル。

その名前に、どこか覚えのようなものがあった。だが、それが何なのかといわれても説明できない。どこか不思議な感じだけが残っていた。

そして──

控えの間へと移動する。今日の予定と、簡単な文書確認だけ。その間、ゼノ・グラナートは、いつもの位置にいた。姿勢は変わらず、沈黙も保たれているはずだったのに──。

(……あれ?)

ほんの一瞬、彼の視線が揺れた気がした。気のせいかと思いかけたが、胸の奥にひっかかる。

「……ゼノ様?」

アリシアが呼びかけると、ゼノは即座に一礼を返した。

「お変わりありませんか、姫様」
「ええ……でも、ゼノ様、いつもと違うように思って」
「そう見えましたか。……申し訳ありません。少々、考えごとをしておりました」
「“セイル”という方のことで、ですの?」
「いいえ。姫様にご心配をおかけするようなことではありません」

その言葉は、いつも通りの誠実な響きを持っていた。けれど、その奥にあるものを──アリシアは、なぜか感じ取ってしまった。
言葉にならない、わずかな“棘”のような気配。

「なんだか……いつもとは違うみたいですわね」

アリシアは静かにそう呟いて、窓の外に目を向けた。
外では風が枝を揺らし、淡い陽の光が木々の影を落としていた。

 

◇◇◇

 

その青年は、王女宮の門前に立っていた。陽射しに晒された石畳の上で、深く頭を下げた姿は、どこまでも礼節に満ちている。

帽子を片手に持ち、襟元をきちんと留めたその立ち姿。だが、ゼノは最初の一瞥で理解していた。

──この男は、只者ではない。

「……ゼノ・グラナートです。アリシア殿下付きの護衛を務めております」
「……セイル・クレイドです。王太子殿下より命を受け、補佐官として参りました」

セイル・クレイド。
わずか数語の挨拶の背後に、“本物の誠意”と“覚悟”が透けて見えた。

「王女殿下にご挨拶を……と、思ったのですが」
「侍女が案内いたします。私の方から通しておきましょう」

平坦な声を保ったまま、ゼノは少しだけ視線を下ろした。視線を落とした瞬間、喉奥に何かが詰まった。
セイルがふっと頭を下げる。柔らかく、けれど芯のある動作だった。その仕草が、ふいに胸の奥をざわつかせた。

その礼儀が、長く仕込まれた“型”ではなく、自ら選び取った“信条”であることが一目でわかる。
そして何より──この者の“核”には、揺るがぬものがある。

王太子殿下の名を背負って来た。それだけでも十分な“異例”だ。だが問題は、その名ではなく──彼の“目”だった。まっすぐで、曇りなく、それでいて、見返したくなるような強さを持っている。

ゼノは、少しだけ息を吸った。

こういう目を、知っている。目的のためならば、どれほど長くても待てる者の目。そして、一度決めたことを決して曲げない者の目。

(……間違いない)

あの夜にかけられた“ありがとう”が、彼の中でまだ燃えている。あの一瞬が、三年という時間を越えて、彼をこの場に立たせた。

ゼノは、どこまでも冷静に装ったまま、背筋を正す。

護衛の顔を保ち続ける。それが今、自分に許された唯一の手段だった。

「……ようこそ、お越しくださいました」

わずかに口角を上げる。それは微笑と呼ぶにはあまりに固く、威圧と呼ぶには静かすぎた。
セイルは、また一つ、礼を重ねた。そこへ侍女が静かに近寄ってくる。

「お待たせいたしました。王女殿下がお会いするとのことでございます。宮の中の説明もございますので、こちらへどうぞ」

そのまま、侍女に伴われて門をくぐっていく瞬間。すれ違いざま、ほんのわずかにゼノの視線とセイルの目が交差する。

一瞬の、無言の対峙。
──火は、既に灯っていた。けれど、それに気づく者は、まだ誰もいない。

 

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