第5話 積み上げられた記録
──今朝、また一つ、“前例”が作られた。本来であれば、それは一報として上がってくるだけの軽微な事項だったはずだ。王女殿下の庭園散策に、正式護衛の近衛騎士ではなく、グラナート家の嫡子が同行していた。ただ、それだけの話でしかなかった。
だが、問題はそれが初めてではないということだった。同じような記録が、すでに複数回。──それを、“前例の積み上げ”と呼ばずして、なんと呼ぶ。
記録課書記官として、否応なく目にする文書の数々は、否応なくその現実を突きつけてくる。命令系統の記録はない。けれど、王女宮の日誌には「ゼノ・グラナートの同行」が、何度もごく自然に記録されていた。まるで、それが“当然のこと”であるかのように。
(……グラナート家の家宰が動いている)
確証はない。だが、感触はある。あれほど静かに、かつ、着実に記録と実績を積み重ねられるのは──文官仕込みの手腕を持つ者でなければ、不可能だ。
(このままでは、いずれは“公認の並び”になってしまう……)
政務棟の廊下を歩きながら、フロイはわずかに眉をひそめた。外見に出すほど愚かではない。だが、胃のあたりに鈍い痛みを感じるのも事実だった。
「……リースフェルト、次の確認書式はこっちだ」
背後から、年若い声が書類束を掲げて追いついてくる。振り返ると、そこにいたのは同僚である記録課の文官。きびきびとした足取り、だがどこか寝不足のような目元。
「ありがとう。昼食のあとに通す予定の承認印はこちらで」
フロイが無言で書類を手に取ると、相手は少しだけ声を潜めて続けた。
「……知ってるか? “彼”の同行記録、また入ってきてたぞ。今回は三日前の庭園散策分」
「ああ。確認済みだ。気づいたか?」
「……まあな。正直に言って、精密としか言えない。事後の文書調整が完璧。形式的には一切の瑕疵がないなんてなぁ」
「だろうな。──あの書き方、儀礼課上がりだろうな。そういえば、あの家の家宰、そこの出だったよな?」
「儀礼課を泳ぎ切った狸だろう? 有名だからな。先輩たちが相手にしたくないと苦虫潰していた理由がわかるよ」
同僚の言葉にフロイは肩をすくめる。そういえば、儀礼課にいる兄からも聞いたことがあるなという記憶。同じ儀礼課の人間でも相手にしたくないと感じている古狸、という印象を受けた。その相手が動いている。――正直、考えたい話ではなかった。
フロイは立ち止まり、廊下の窓から外を見た。朝の光が差し込む先に広がる庭園。だが、そこにいるはずのない人影を見たようにも思う。おそらく、先ほど目にした文書の影響だろう。庭園を散策する小柄な少女と、その傍らに並ぶ紫紺の衣をまとった青年の姿。
──別の日に、たしかにその並びを見た。その時に感じたのは、絵のような風景。あまりに自然で、整っていて、違和感がない。けれど、それこそが最大の問題だった。
(……違和感がない、ということは、“受け入れられつつある”ということだ)
王族にとって、“印象”は武器であり、盾でもある。たとえ正式な布告がなくとも、周囲がそれを当然と受け入れれば、いつしかそれは既成事実となる。記録課の文官として、その理を知らぬわけではない。
──けれど、ではそれが本当に“王女殿下の望むもの”なのか。そう問われたとき、自分は自信を持って頷けるのか。
「リースフェルト?」
肩越しに呼びかけられて、フロイは小さくかぶりを振った。
「いや、何でもない。……このまま記録課に戻ろう。どうせ、今日も書類の山だろうし」
「仕方ないな」
足音をそろえて再び歩き出す。けれどその脳裏には、幻想の光景が、残像のように焼き付いていた。
◇◇◇
報告書の束を脇に置き、ようやく席を立ったのは、正午を過ぎようという頃だった。政務棟の廊下を歩きながら、フロイは無意識に手帳を繰る。午後の予定は王女宮での昼餐会の補佐。出席者の肩書きと席次が走り書きで並んでいた。
(……なんでまた、こっちに回ってきたんだか)
舌打ちは飲み込んだ。庶務課の人員が不足しているのは確かだし、王女殿下としての公務も増えてきている。そして、王女殿下に関する案件には、厳密なチェックが求められる。誰がどこに座り、誰と何を話したか──その一つひとつが、記録として残されるのだ。
それだけではない。王女殿下に関する記録は、通常の政務記録とは別に管理される。公務先、出席者、同行者、贈答品の記録──一つひとつは小さな報告でしかない。だが、それらは後になって前例となり、慣例となる。だからこそ、記録課は些細な差異も見逃してはならない。
今回、予定されている昼餐会の会場は、王女宮の中でも自由度の高い小広間だった。扉を開けると、すでに料理が並び始めており、侍女たちが静かに立ち働いている。後宮ではあるが、男性が立ち入ることを許されている場所。そんな独特の空気が流れ、淡い光が白いクロスを柔らかく照らしていた。
(……規模は小さいが、形式は“昼餐会”そのものか)
まだ12歳の王女に夜会や舞踏の席は早い。だからこそこうした昼の会食が、礼儀作法や人とのやり取りを学ぶ場とされている。招かれるのも、縁戚や有力家門のごく限られた顔ぶれだが──だからこそ、席次の一つひとつが意味を帯びるのだ。
「ご苦労さま、リースフェルトくん」
声をかけてきたのは、儀礼課の年長職員だった。フロイよりも十歳は上だが、威圧感のない穏やかな人物である。
「こちらの控えが、出席者の最終名簿です。リースフェルトくんも確認してください」
「ありがとうございます。席次に変更はありましたか?」
「いえ、ありません。王女殿下の左隣は、予定通りグラナート家公子、ゼノ・グラナート殿となっています」
その言葉に、フロイの指が一瞬だけ止まった。だが、それはほんのわずかな間でしかなかった。
「確認しました。では、控えは第六でも保管します」
淡々と応じたつもりだった。けれど──
(……やっぱり、そうなるのか)
内心で、思わず息を吐いた。この数か月で、ゼノ・グラナートの扱いは、明らかに“変化”していた。
最初は、あくまで王女殿下の救出に尽力した“功労者”。その次は、随行護衛を任された“信頼できる随員”。そして今や──教育の場であるはずの昼餐会で、王女殿下の左隣に座るのが、ごく自然な並びとされる存在になっていた。
本来であれば、席次は家格と関係性で決まる。まして王族も参加する席であればなおさらだ。だが今回の名簿を見ても、そこに不自然な点は見当たらない。むしろ自然すぎるほど自然だった。だからこそ、フロイはため息をついてしまう。
とはいえ、今回の席次は、記録上でもなんら問題があるわけではない。王女の信頼が厚く、実績も十分で、家柄も王家に匹敵する。理由なら、いくらでも挙げられる。けれど、文官として、実務の裏にある“空気”を読み取るのが仕事であるならば──これは、ただの偶然ではないと感じざるを得なかった。
(……既成事実、というやつだな)
フロイは、再び無言で手帳に視線を落とした。誰も言葉にはしない。されど、誰もが“そういうもの”として受け入れていく流れ。実務記録の片隅に、静かに積み重ねられていく──もうひとつの、真実。

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