第4話 名前を呼ぶこと

その朝も、控えの間にはいつもの気配があった。ゼノ・グラナートが静かに入室し、壁際に控える。足音はほとんど聞こえず、背筋はぴんと伸びたまま動かない。だが、それがいつものことになった。アリシアはそんなことも感じていた。

「おはよう、ゼノ様」

その声に、ゼノは静かに一礼しただけで、何も言わない。最初のうちはどうして、という気持ちが強かったように思う。アリシアにとって、ゼノは護衛というよりも「お兄様も知っている人」という思いが強かったからだろう。

(お兄様に似ている?……でも、ちょっと違うかも)

王女宮という閉ざされた場所で暮らしているアリシア。だからこそ、兄であるエドワルドしか比較できる相手はいない。そして、兄に感じるものと似たものをゼノにも感じていることにちょっと首をかしげてもいた。

(どうしてかな? うん、やっぱり、いてくれると安心するのかも)

ようやく、自分の中で気持ちが整理できたのだろう。アリシアの表情が少し柔らかくなる。そんな時、フェルミナが静かに入室してきた。その手には今日の予定が書かれたものがある。

「アリシア様、おはようございます。本日の予定ですが、よろしいでしょうか?」
「ええ、いいわ。今日はどんな予定があったの?」

かしこまったような調子だったのに、急に言葉が砕ける。その姿に少し困ったような表情を浮かべながらも、フェルミナは淡々と予定を告げていた。

「本日、午前は先日の視察報告の文書を仕上げていただきます。午後は礼法の教師が参ります。お言葉使いなど、ご注意いただけますように」

フェルミナの最後の言葉は、先ほどの言葉の乱れを注意してくれている。そのことがわかったアリシアはこくんと頷いていた。

(やっぱり、難しい。でも……これって大事なことなのよね)

少しずつではあるが、本宮殿にも足を踏み入れるようになっている。そこで目にするエドワルドは兄の顔をしていない。そのことを思い出したアリシアは、改めて言葉を口にしていた。

「予定の連絡、ありがとう。では、もう少ししたら書類を見る部屋に移動します」
「かしこまりました。マティルダに紅茶を用意させております。それをお飲みになってから移動をお願いいたします」

フェルミナの声に部屋の空気が動く。
どうしてなのかと思ったアリシアの視線からゼノの姿が消えていた。

(どうして? あ、わたくしが場所を変えるからなの?)

今までに経験した公務のおかげで、護衛が先回りして確認することがあることはわかっている。だからこそ、ゼノがその場から消えた理由もわかっているはず。だというのに、どこか不安になるような気持ちが彼女の中にあるようだった。

(うーん。どうして、気になるの?)

もっとも、そんなことを口に出せるはずもない。アリシアは何事もなったような顔でフェルミナに導かれながら紅茶の用意された席についているのだった。

 

◇◇◇

 

午後の陽がやわらかく傾く頃、アリシアは小さな庭園の縁石に腰を下ろしていた。足元には整えられた芝と夏を彩る花々。さわりと風が吹き抜け、花びらがひとひら舞い落ちる。

今日は礼法の授業もあり、思った以上に気を張っていたのだろう。アリシアは小さく息を吐いた。

「お疲れでございますか?」

振り返ると、銀の盆を手にしたマティルダが歩いてくる。

「う~ん、どうなのかしら? 疲れたような、そうじゃないような感じ? 礼法の先生って厳しんだもの」

不満げに口をとがらせる姿。フェルミナの前では見せないが、マティルダが相手だと気も緩むのだろう。言葉使いもどこか幼くなっている。そんなアリシアの様子にマティルダは少し困ったような、それでも優しい視線を投げていた。

「では、ちょうどよかったですわ。冷たいお茶をご用意いたしました」

注がれた茶を口にすると、肩の力が抜けたのだろう。カップを手に夏の空を見上げている。

「おいしい……」
「それはようございました」

マティルダは穏やかに微笑む。フェルミナから内々に、今日の予定はすべて終わっていることを告げられている。だからこそ、彼女はアリシアをせかすことなく、二人でいる時間を大事にしようとしているようだった。

しばらく二人で庭を眺めていたが、ふとアリシアは何かに気が付いたように、辺りを見回した。

「あれ……?」
「どうなさいました?」
「ううん」

そう答えながら、もう一度視線を巡らせる。いつもなら見えているはずの人影がない。木陰にも。回廊の近くにも。見当たらない。

(どこへ行ったのかしら)

そう思った瞬間。少し離れた植え込みの向こうに、見慣れた紫紺の制服が見えた。

(あそこにいたんだ!)

どうしてなのかはわからない。それでも、見慣れた姿を見つけたことで安心したのだろう。アリシアは無意識のうちに息をついていた。

「アリシア様? どうかなさいましたか?」

マティルダの声がどこか心配したようなものになっている。そこのとを感じたアリシアは、慌てて首を振る。

「なんでもない。うん、なんでもないわ」
「さようでございますか?」

マティルダはそう言いながらも、アリシアの視線の先を追っていた。そして、すぐに気付いたように小さく笑う。

「グラナート様を探していらしたのですか?」
「ち、違うわ」

反射的に否定したものの、自分でも何が違うのかわからない。

「ただ、見えなかったから」
「護衛ですもの。周囲の確認をしているのでしょう」
「だから、そうじゃないって」

マティルダの言葉に頬をふくらませながら反論しているアリシア。とはいっても、護衛が周囲の確認をすることは仕事として当然なのはわかっている。それが自分の生活する場所である王女宮であっても変わらない。
むしろ、公務に出るようになってからは、護衛が先回りすることがあるとも覚えた。

それなのに。
姿が見えないと、少しだけ落ち着かない。見慣れた紫紺の制服が見えると安心する。なんといっても、近衛の銀とは色が違うのだ。目立つからというのもあるのは間違いない。

(……ゼノ様がいると安心するのよ。う~ん、どうしてなのかな?)

その理由は、自分でもよくわからなかった。

「でも、不思議ですわね」
「なにが?」
「最初の頃は、グラナート様がいらっしゃると緊張なさっていたでしょう?」
「そうだったかしら」
「ええ」

マティルダはくすりと笑う。

「今は、いらっしゃらない方が気になるようです」
「そんなこと……」

否定しかけて、言葉が止まる。たしかに。少しだけ。ほんの少しだけ。気になった。

ツンと横を向きながら、アリシアは言葉を続ける。

「だって、護衛だもの」
「はい」
「ちゃんといてくれないと困るでしょう?」
「そうでございますね」

完全に納得しているとは思えない返事だったが、マティルダはそれ以上何も言わなかった。

そのときだった。

「殿下」

聞き慣れた声がした。振り向けば、ゼノが静かに一礼している。

「周囲の確認が終わりました」
「そう。ありがとう」

それだけ答えながら、アリシアは少しだけ胸の奥が軽くなるのを感じた。理由はわからない。けれど――。

やっぱり、そこにいてくれると安心する。

そんなことを思いながら、アリシアは再びお茶に手を伸ばした。

 

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