第3話 そばにいる人
その日の午後、アリシアの手元に届いたのは1通の通達文だった。
《王女殿下の外出に際し、グラナート家嫡子ゼノ・グラナートを随行させることを、政務官会議の決定により承認する》
決まりきった文面。ただ、そこに記された名前が、ぽつんと浮かんで見えた。
「殿下、お茶が入りました。──あら……どうなさったんです?」
侍女のマティルダが不思議そうに問いかける。アリシアは通達文を見せながら、首を傾げた。
「ゼノさまって、たしか……あの、この前……」
どう、言葉にしていいのかわからない。そんな気持ちが言葉を途切れさせたのだろう。そんなアリシアを安心させるように、マティルダが言葉をつなぐ。
「さようでございますね。それと……今回はご随行の辞令が下りましたから、明日からは正式にお付きになりますね」
「そ、そうなのね……」
「何か、気になることでもございますか?」
「う、ううん。なんでもない。ちょっと、びっくりしただけ」
そう言いながら、通達文をひらひらさせているアリシアの姿に、マティルダは手を差し伸ばしていた。
「お気持ちはわかりますわ。でも、こういう形が必要なのもお分かりですわよね?」
マティルダの言葉に、アリシアも素直に頷いている。たしかに、誰かが護衛として同行することは不思議ではない。ただ、アリシアの中でのゼノは「頼りになるお兄様」だった。それが、護衛という形になることにどこか不思議な思いだけが大きくなっていたのかもしれない。
翌朝。王女宮の扉が静かに開いたとき、アリシアの目にはすぐにゼノの姿が映った。紫紺に銀糸をあしらった軍装。近衛の制服と微妙に違っていても、銀が入っている。添えられているのは、結び目ひとつ緩みのない剣帯。姿勢も表情も、ぴたりと整っていた。
「……おはようございます、ゼノさま」
アリシアが声をかけると、ゼノはわずかに一礼し、すぐさま一歩下がって控える位置へと移った。──それだけ。返事もなく、目も合わせない。それなのに、いるべき場所に当然のように立っている。
「……なんだか変な感じ」
ぽつんと呟かれた声は風に乗って散っていく。その日も、王女宮はいつもと同じ朝の時間を迎えているようだった。
◇◇◇
この日の訪問先は、王都の郊外にある修道院が運営する孤児院だった。石造りの門の前で、修道士たちが一斉に頭を下げる。
「ようこそお越しくださいました、アリシア王女殿下」
「日頃より、温かいご支援を賜り、感謝申し上げます」
その声に軽くうなずきながら、アリシアは後ろに控える女官に視線を向ける。心得たように大きなバスケットを手にした女官が修道士に言葉をかける。
「こちら、王宮よりの品となっております。子供たちが健やかに暮らせるようにと王陛下よりもお言葉を賜っております」
その声に修道士たちの頭がさらに下がっていく。その中をアリシアは少し深呼吸して、一歩を踏み出した。その少し後ろ、ゼノが音もなくついてくる。そうやって、孤児院の廊下を進んでいく途中、世話役の修道女たちのひそひそとした声が聞こえてきた。
「……あの方、護衛の方でしょうか」
「……先日、お見えになられたときは、王太子殿下とご一緒でしたわね」
「どちらにしても、王族の方をお迎えできるのは、ありがたいことですよね」
ごく小さなささやき。それが気にならないといえば噓になる。でも、アリシアはまっすぐ前を向いて歩いていた。
(この前は、お兄様とご一緒したんだったっけ……でも、今日はわたしだけ……)
一人での訪問はたしかに心細い。でも、今日は後ろにいてくれる人がいる。それだけで、アリシアの気持ちはどこか安心するものになっているようだった。
案内された作業室には、机が並び、絵の具や糸巻きが棚に整えられていた。絵の具のにおいが、少しだけ漂ってくる。
「王女殿下のご来訪を、皆、楽しみにしておりました」
その声に合わせるように、小さな視線がいくつも集まってくる。アリシアは、ふいに足を止めた。──緊張、してる。小さな手が少し汗ばんでいる。でも、ここで不安な顔を見せるわけにはいかない。アリシアは思い切って声を出していた。
「……ほんとは来るの、ちょっと緊張してたの。でも、会えてうれしいです」
それは、用意されていた言葉ではなかったけれど──アリシアの中から自然と出たものだった。その瞬間、小さな男の子がひとり、前へ出てきた。上着の裾をぎゅっと握りしめて、アリシアを見上げる。
「……あの、そばの、おにいちゃん……」
ぽそりと漏らすような声。
「こわくないの?」
一瞬、空気が止まる。けれど、誰も止めようとはしなかった。アリシアは、ちょっとだけ考えて──それから、そっと笑って答えた。
「うん、こわくないよ。……あの人は、わたしのこと、護ってくれてるの」
男の子は目をまんまるくしたまま、こくんとうなずいた。
「ふーん……つよいんだね、きっと」
「うん、つよいわよ。だから、こわくないの」
自分でも、どうしてそう言えたのかわからなかった。でも、不思議とそう思えた。ちらりとゼノを見やる。彼は、やっぱり黙ったまま立っていた。
……それだけで、十分だった。
◇◇◇
帰り道の馬車は、王都の石畳をゆっくりと進んでいた。その馬車の中で、アリシアは大きく息を吐く。
「お疲れでございますか?」
アリシアを労わるようなマティルダの声。それに対して、肩をすくめながらアリシアは応えていた。
「思ったより緊張したの」
「さようでございますか。でも、ご立派でございましたよ」
「ほんとう?」
マティルダの声にアリシアの表情がフッとほころぶ。そのままの調子で、彼女は言葉を続けていた。
「だったら、戻ったらマティルダの紅茶が飲みたい。ね、頑張ったご褒美に淹れてくれない?」
「まあ、先ほどまでのご立派な王女様とは思えませんね」
「いいじゃない。だって、一人で頑張ったのよ」
子供らしい調子で話しているうちに、緊張も取れてきたのだろう。アリシアはそっと馬車の窓から外を覗く。そんな彼女の姿に気が付いたのか、通りがかりの人たちが立ち止まり、帽子を取ったり、手を振ったりしている。アリシアも、そっと手をふり返した。
「……みんな、優しい」
「王女様ですもの」
冗談めかしてマティルダが笑う。アリシアもつられて微笑んだ。ふと、視線を後ろへ向ける。馬車の窓から首をのばすようにして、そっとのぞき込んだ。
少し離れた場所、馬上で静かに馬車を追ってくる人影。紫紺に銀糸の制服姿。背筋はぴんと伸びていて、手綱を持つ指先も動かない。朝と同じ。あのときとまったく変わらない姿で、彼はそこにいた。
(……ずっと、見てたんだろうな)
子どもたちと話したときも、絵を見せてもらったときも、花をもらったときも──ひとことも喋らず、でも確かにそこにいた。あれが、“護ってくれてる”ってことなのかもしれない。
◇◇◇
「……ありがとうございました」
王女宮に戻り、一日をねぎらうつもりで小さくつぶやいたその声。彼にまで届いたかどうかはわからない。けれど、そう口にしたことで、ほんのわずかに胸の奥が軽くなるのを、アリシア自身も感じていた。
黙ったまま何も言わなくても、そこにいてくれる人がいる。それが少しだけ、うれしかった。
どうしてそう思うのかはわからない。でも、安心できる。それはきっと、彼がこの一日を通して、静かに教えてくれたことでもあった。

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