第2話 王女宮、動く
その朝、王女宮には、かすかな緊張とざわめきが満ちていた。侍女たちは早朝から動き回り、衣装を整えている。文官が届けてきた日程表に並んでいたのは、午前中の教会訪問と、午後の簡単な報告確認だけ。
学業と政務の両方をこなしている兄エドワルドの予定を知るアリシアから見れば、少し拍子抜けするような内容。だが、10歳の少女にとっては、そのくらいがちょうどいいのかもしれない。“王女としての第一歩”を踏み出すには、穏やかで無理のない始まりだった。
「アリシア様、準備が整いました」
王女宮の女官長であるフェルミナの柔らかい声が響く。その声に合わせるように、侍女のマティルダが銀の櫛で最後の仕上げを整えた。
アリシア自身は落ち着いた微笑みを浮かべ、背筋をまっすぐに伸ばしている。とはいえ、目元には緊張の影が残っているのは間違いない。
「うん、大丈夫。わたくしなら、頑張れる」
かすかに口からこぼれる言葉にマティルダが頷き、フェルミナが仕方がないわねというような表情を浮かべる。それを目にしたアリシアは目を閉じて、ひとつ深く息を吐いた。
「準備、できました。今から参ります」
椅子から立ち上がった姿見の中には、淡金のドレスに身を包んだ少女の姿がある。肩には紗を重ねたケープ。儀礼に則った装いながら、どこか着慣れない。けれど、それでいい。
扉が開き、控えの空気が静かに動く。アリシアを先導するように歩くのは宮廷女官。アリシアの後ろに従うのは、マティルダと王宮儀礼課の文官補佐。その後方に続くのが少数ではあるが、選別された近衛兵。もっとも、その中にゼノ・グラナートの姿は、見当たらなかった。
それはある意味で当然。彼は、学生という身分でありながら、例外的に王女付きの護衛を許されていたにすぎない。だからこそ、こうした公式の場に姿を見せることなど、あるはずもない。だが、そんなことをアリシアは知っているはずもない。
(どうして、いないのかしら? いてくれたら安心したのに……)
そんな思いを胸にしながら、アリシアは初めての公務に進み始めていた。
◇◇◇
その日の訪問先は、王都第一区にある大聖堂だった。白衣の神職たちは正面に整列し、深々と礼を取ってアリシアを迎えた。
「ようこそお越しくださいました、アリシア王女殿下」
「お待ちしておりました。聖堂一同、心より歓迎申し上げます」
その声音は穏やかで、格式に違わぬものだった。けれど、言葉の端々に、どこか慎重な色がにじんでいる。それは、アリシアの10歳という年齢と“公務としての初日”が重なっているのだろう。アリシアはそれを空気として感じたのか、小さく息を整えると、静かに一礼を返した。
「皆さま、本日こうしてお目にかかれたこと、心より嬉しく思います」
言葉は儀礼課から渡された定型文だったが、その声音には確かな意志がこもっていた。挨拶を終えた堂内には、淡い光が差し込む。大理石の床に、ステンドグラスの色が静かに揺れている。
アリシアは、ゆっくりと歩を進めた。献花の台の前で立ち止まり、教えられた通りに、頭を下げる。
その瞬間、自分が“見られている”ことを、強く意識する。それは、聖堂に集まっていた人々の気配を感じたからだろう。中には無邪気な子供の声も入っている。
「きれい……」
「ステンドグラスの天使さまの絵と同じだよね?」
神職たちはその声をあえてさえぎらない。というよりも、さえぎるつもりもなかったのだろう。アリシアの耳にかすかに届いてくる声。その時、彼女の胸の奥に、王女としての小さな決意が灯っていた。
◇◇◇
訪問を終えて王女宮に戻るころには、昼の陽射しが中庭に差し込み始めていた。午後からの初執務のため、アリシアは執務室へと足を向ける。部屋にかけられたレースのカーテンが静かに揺れ、窓の隙間から、ささやかな風が通り抜ける。
「……お帰りなさいませ、アリシア様」
出迎えた文官補佐が、手にした書類の束を執務机の上にそっと置く。
「本日分の報告書でございます。教会訪問の振り返りと、礼状の写し、それから──」
「次回日程の確認、ですね」
アリシアの声に文官補佐は軽く頷くと、淡い微笑みを浮かべた。
「内容はすでに通達済みでございます。殿下には、ご署名のみお願い申し上げます」
「わたくしは署名だけでいいのね?」
無邪気に問いかけるアリシア。その声には、わずかに安心したような響きがあった。文官補佐は微笑みながら、再び頭を下げる。
「はい。……けれど、殿下がご希望なさるのであれば、内容のご説明も――」
「うん……今日は、ここまでにしておく。次は少しだけ、説明してもらってもいいかも」
アリシアは、ふっと笑って答えた。子どもらしい笑顔の奥に、どこか王女としての気概が垣間見えた。その姿に文官補佐も微笑ましい思いを隠すことができない。
「はい、かしこまりました。まだ、お疲れも残っていらっしゃるでしょうから、ご無理のない範囲で。こちらに署名をいただいてもよろしいでしょうか?」
問いかけるような文官の言葉に、アリシアは頷くと小ぶりの椅子に腰を下ろす。そのまま、ゆっくりとした手つきで署名をしていた。
初めての公務という重責。それが終わったのを感じたのだろう。アリシアは、ふと息をつき、 背もたれに預けた肩から、少しだけ力が抜けていた。
「……思っていたより、大変だったかも」
独り言のように漏らしたその声からも緊張がほどける感覚がある。ただ、それはまだどこか不思議で。けれど、その頬には小さな達成感が浮かんでいた。
「お疲れ様でございました、アリシア様」
マティルダが、湯気の立つ紅茶と焼き菓子をそっと差し出す。その所作にも、朝のような緊張感はすでになかった。侍女たちも少女らしい声を張り上げ、宮全体に流れる空気も穏やかなものになっている。王女が“この場所に戻った”という現実が、彼女たちにとっても支えになっていたのだろう。
そんな中、アリシアの視線が控えの間の椅子に向かう。そこには、誰も座っていなかった。……でも、つい最近まで、あの場所にはいつもゼノ・グラナートがいた。
兄と同じ学園生。でも、“実地経験”という名目で一時的に王女宮へ帯同していた相手。彼は護衛でもなく、文官でもなく──それでも、いつも一定の距離を保ちながら、黙って彼女のそばにいた。
しゃべるわけでも、笑いかけてくるわけでもないのに、気配だけはちゃんと届いていた。まっすぐに伸びた背筋と、視線を向ければそこにある確かさ。……あの沈黙のなかに、どれだけ助けられていたのか。
いないのは分かっていた。兄エドワルドも同じ。授業や政務の都合で会えないことのほうが多かったはずだ。それなのに──なぜだろう。今日の公務を終えた今になって、ようやく、その空白が心の奥にじんわりと広がってくる。
(……どうしてなのかしら?)
だからといって、口に出すことではなかった。この不在は、記録にも報告書にも残らない。ある意味では日常の一コマ。けれど──今日という一日の記憶には、確かに残っていた。たったひとり、“いない”はずの誰かのことも含めて。
(いてくれたら、もう少し安心できたのかもしれない……)
自分でもわからない思いを持て余すように、アリシアは、そっと目を伏せていた。その視線は、誰もいない椅子にもう一度だけ向けられていた。

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