第1話 記録に残されたこと

それは、夜が明けきらぬ早朝のことだった。宮廷中央庁舎の政務棟、その一角にある会議室では、既に何人もの文官たちが顔を揃えていた。

蝋燭の灯が揺れる中、重々しい空気をまとった長机の中央には、綴じられたばかりの分厚い報告書。その表紙には――

《王女殿下誘拐事件・最終調査報告書(機密)》

と、黒インクで明記されていた。

「……フォーゲルの当主はどうなった?」

小声で誰かが呟いた。フォーゲル家。五大家の一角であり魔道伯とも呼ばれている一族。そして、この一族の当主が今回の事件の背後にいることが突き止められたのだった。

「どうって言われても……」
「なにしろ、王陛下も王太子殿下も相当お怒りだったしな」
「一時は一族郎党全員が処分になるかと思っていたんだが……」
「さすがに、それはないだろう」
「だろうな。五大家ともなれば、表立った粛清はできない」
「だからこそ、フォーゲル家現当主の隠棲表明なんでしょう。後を継ぐ者は大変でしょうが」

室内には、どこか釈然としない空気が漂っていた。だが、それ以上に強かったのは、張り詰めた緊張の糸がようやく緩んだという安堵。

「……王女殿下が、ご無事だったことが、なによりでした」

そう口にした若手の文官に、上席が静かに頷いた。

事件は未曽有のものだった。王城の奥、後宮ともいえる王女宮から、王女が忽然と姿を消す。侵入の痕跡もなく、魔術の残滓もない。王女宮から王女が消えたという事実だけが残され、原因は二日間まったく掴めなかった。

鏡を媒介とした転移術式――亡き王妃が使っていた部屋の床に隠されていた転移陣。その転移陣を描き、媒介となった鏡を用意したのがフォーゲル当主。だが、彼は表立っては動いていなかった。王女の侍女として正式登用されたばかりの11歳の少女が矢面に立たされたのだった。

「それはそうと、エルマとか言ったか? あの侍女は……?」
「第六での聴取が終わり次第、修道院に預けられるとか」
「釈放されたとしても、無事には済んでいないってことですか……」

重たい沈黙。ようやく“王女が帰ってきた”今となっては、事件そのものの詳細を掘り下げようとする声も少なくなっていた。だが、事件の報がもたらされたあの日──

政務課は、突如押し寄せた混乱の渦に呑まれた。規定の再確認、未決の案件の棚上げ、緊急連絡系統の書き換え。誰が指示を出すのか。何を最優先とすべきか。その判断すらも宙づりとなり、文書だけが容赦なく積み上がっていった。

あの時、誰もが思い知ったのだ。たったひとりの不在が、これほどまでに国を脆くするのだと。

その王女は、帰ってきた。人々の視線が集まる場所へ、静かに歩みを戻した。まるで、何もなかったかのような笑顔で。それが“当然の居場所”であると無言で主張しているようだった。

 

◇◇◇

 

その朝、王女宮は、どこか張り詰めた空気が漂っていた。本宮殿から派遣された女官たちがフェルミナの指示で動く。彼女たちは年若い侍女たちに部屋の空気を整えることを教えている。

王女宮は正式に稼働していたが、実態はまだ仮宮の雰囲気が残っていた。女官は、監督役のフェルミナただひとり。他には古くから仕える乳母と、姉侍女マティルダ。アリシアと同年代の、少女侍女たちも集められてはいた。そして、その中には、戻らぬ者が一人いる。だが、誰もそのことを口にしようとはしない。

静かな時間が流れる。この沈黙の中には、抑えきれない緊張と、どこか切実な祈りのようなものが込められていた。

アリシアが姿を消した炎月五日から一週間。“主を失った王女宮”を維持し続けてきた者たちにとって──今日という朝は、特別な意味を持っていた。

もうすぐ。あの扉の向こうから、姫が帰ってくる。

──そして。

庭の向こう、白い回廊を挟んだ通路に、ふいに気配が生まれた。足音は、二人分。けれど決して急がない。静かで、迷いのない、落ち着いた歩みだった。

一人目に現れたのは、深い藍色の礼服に身を包んだ若き王太子。その傍らには、小柄な少女の姿。金糸の髪は丁寧に梳かれ、足元まで届く薄衣に包まれている。だが、どこか色彩が淡く感じられるのは、朝の光のせいか、それとも――。

「……っ、アリシア様」

マティルダが小さく叫ぶようにして、数歩、前に出た。だが、すぐには駆け寄らない。何か、確認を待つように立ち止まる。王太子は、その視線を受けてわずかに頷いた。

それを合図に、マティルダがそっと少女の手を取る。冷えてはいるが、震えてはいない。その手の感触に、マティルダはようやく、わずかに息を吐いた。

「……おかえりなさいませ、姫様」

その声に応えるように、アリシアの細い腕がマティルダの首に回される。

「……こわかったの」

誰にも聞こえないようなささやき。だが、マティルダの耳には届いている。だからこそ、彼女はアリシアの背中を優しくトントンとしていた。それに安心したようにしゃくりあげるアリシアの声が続く。

「マティルダ……ただいま……」
「……はい、姫様」

王太子は、それを見届けると、少女の背にそっと目を向け、低く呟いた。

「……頼んだぞ、マティルダ」

その一言を残し、彼は回廊を背に歩き出した。

 

◇◇◇

 

「姫様、ご無事でなによりでございます」

穏やかな口調で声をかけてくるフェルミナの姿に、目元を少し赤くしたアリシアは気まずそうに頷いていた。だが、フェルミナはそんなアリシアの様子を気にする素振りを見せない。後ろに控えている女官にアリシアを案内するようにと告げるだけ。

「お疲れになられたと思います。とはいえ、姫様の誕生日にいただきました祝いの令状もしたためないといけません。少し、お休みになられてからお時間をいただけますか? 紅茶の用意もさせております。お体を温めてから、お目通しいただければと思っております」

その声にアリシアはかすかに頷いている。それまでの、子供だからと甘やかしてくれる人だけではない。自分のやるべきことを見せてくれる人。でも、だからこそ自分はここにいるのだというかすかな自覚。
アリシアはもう一度だけフェルミナを見上げ、それから静かに王女宮の奥へと歩き出した。

その同じ朝、第六課では、別の静けさが支配していた。日常の政務記録や連絡文書の処理に加え、臨時の措置や記録補填までを担う、いわば“記録の何でも屋”。
この朝、執務机の一角では、若手書記官が政務通達を手に困惑していた。

「“随行者一名”。……これだけ、ですか?」

隣でそれを聞いていた人物が、無言で眉をひそめる。

「名がない。役職もない。“許可”だけで、帯同が正当化されている……」

手元の記録簿を見つめながら不思議がる若手に、エグバートはぽつりとこぼす。

「これは記録じゃない。──印象操作の一種だ」

それを耳にした年かさの記録官は、やや苦笑しながらも手を止めなかった。

「そうだな。だが、これを“処理”するのが、うちの役目だよ」

最終的な筆を走らせたのは、別の記録官。エグバートの手は動かない。それでも、彼は黙って処理を見届けた。帳尻を合わせることに納得はしていない。だが、ここが今の“王政”なのだと、彼は理解していた。

《王女殿下・随行者一名(帯同許可)》

《所属:非公式》

《補記:宮内より継続確認あり、異議なし》

それは、何も語らないようでいて、すべてを語っていた。

 

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