第3章 戻った場所、変わった景色

第1話 記録に残されたこと

それは、夜が明けきらぬ早朝のことだった。宮廷中央庁舎の政務棟、その一角にある会議室では、既に何人もの文官たちが顔を揃えていた。

蝋燭の灯が揺れる中、重々しい空気をまとった長机の中央には、綴じられたばかりの分厚い報告書。その表紙には――

《王女殿下誘拐事件・最終調査報告書(機密)》

と、黒インクで明記されていた。

「……フォーゲルの当主はどうなった?」

小声で誰かが呟いた。フォーゲル家。五大家の一角であり魔道伯とも呼ばれている一族。そして、この一族の当主が今回の事件の背後にいることが突き止められたのだった。

「どうって言われても……」
「なにしろ、王陛下も王太子殿下も相当お怒りだったしな」
「一時は一族郎党全員が処分になるかと思っていたんだが……」
「さすがに、それはないだろう」
「だろうな。五大家ともなれば、表立った粛清はできない」
「だからこそ、フォーゲル家現当主の隠棲表明なんでしょう。後を継ぐ者は大変でしょうが」

室内には、どこか釈然としない空気が漂っていた。だが、それ以上に強かったのは、張り詰めた緊張の糸がようやく緩んだという安堵。

「……王女殿下が、ご無事だったことが、なによりでした」

そう口にした若手の文官に、上席が静かに頷いた。

事件は未曽有のものだった。王城の奥、後宮ともいえる王女宮から、王女が忽然と姿を消す。侵入の痕跡もなく、魔術の残滓もない。王女宮から王女が消えたという事実だけが残され、原因は二日間まったく掴めなかった。

鏡を媒介とした転移術式――亡き王妃が使っていた部屋の床に隠されていた転移陣。その転移陣を描き、媒介となった鏡を用意したのがフォーゲル当主。だが、彼は表立っては動いていなかった。王女の侍女として正式登用されたばかりの11歳の少女が矢面に立たされたのだった。

「それはそうと、エルマとか言ったか? あの侍女は……?」
「第六での聴取が終わり次第、修道院に預けられるとか」
「釈放されたとしても、無事には済んでいないってことですか……」

重たい沈黙。ようやく“王女が帰ってきた”今となっては、事件そのものの詳細を掘り下げようとする声も少なくなっていた。だが、事件の報がもたらされたあの日──

政務課は、突如押し寄せた混乱の渦に呑まれた。規定の再確認、未決の案件の棚上げ、緊急連絡系統の書き換え。誰が指示を出すのか。何を最優先とすべきか。その判断すらも宙づりとなり、文書だけが容赦なく積み上がっていった。

あの時、誰もが思い知ったのだ。たったひとりの不在が、これほどまでに国を脆くするのだと。

その王女は、帰ってきた。人々の視線が集まる場所へ、静かに歩みを戻した。まるで、何もなかったかのような笑顔で。それが“当然の居場所”であると無言で主張しているようだった。

 

◇◇◇

 

その朝、王女宮は、どこか張り詰めた空気が漂っていた。本宮殿から派遣された女官たちがフェルミナの指示で動く。彼女たちは年若い侍女たちに部屋の空気を整えることを教えている。

王女宮は正式に稼働していたが、実態はまだ仮宮の雰囲気が残っていた。女官は、監督役のフェルミナただひとり。他には古くから仕える乳母と、姉侍女マティルダ。アリシアと同年代の、少女侍女たちも集められてはいた。そして、その中には、戻らぬ者が一人いる。だが、誰もそのことを口にしようとはしない。

静かな時間が流れる。この沈黙の中には、抑えきれない緊張と、どこか切実な祈りのようなものが込められていた。

アリシアが姿を消した炎月五日から一週間。“主を失った王女宮”を維持し続けてきた者たちにとって──今日という朝は、特別な意味を持っていた。

もうすぐ。あの扉の向こうから、姫が帰ってくる。

──そして。

庭の向こう、白い回廊を挟んだ通路に、ふいに気配が生まれた。足音は、二人分。けれど決して急がない。静かで、迷いのない、落ち着いた歩みだった。

一人目に現れたのは、深い藍色の礼服に身を包んだ若き王太子。その傍らには、小柄な少女の姿。金糸の髪は丁寧に梳かれ、足元まで届く薄衣に包まれている。だが、どこか色彩が淡く感じられるのは、朝の光のせいか、それとも――。

「……っ、アリシア様」

マティルダが小さく叫ぶようにして、数歩、前に出た。だが、すぐには駆け寄らない。何か、確認を待つように立ち止まる。王太子は、その視線を受けてわずかに頷いた。

それを合図に、マティルダがそっと少女の手を取る。冷えてはいるが、震えてはいない。その手の感触に、マティルダはようやく、わずかに息を吐いた。

「……おかえりなさいませ、姫様」

その声に応えるように、アリシアの細い腕がマティルダの首に回される。

「……こわかったの」

誰にも聞こえないようなささやき。だが、マティルダの耳には届いている。だからこそ、彼女はアリシアの背中を優しくトントンとしていた。それに安心したようにしゃくりあげるアリシアの声が続く。

「マティルダ……ただいま……」
「……はい、姫様」

王太子は、それを見届けると、少女の背にそっと目を向け、低く呟いた。

「……頼んだぞ、マティルダ」

その一言を残し、彼は回廊を背に歩き出した。

 

◇◇◇

 

「姫様、ご無事でなによりでございます」

穏やかな口調で声をかけてくるフェルミナの姿に、目元を少し赤くしたアリシアは気まずそうに頷いていた。だが、フェルミナはそんなアリシアの様子を気にする素振りを見せない。後ろに控えている女官にアリシアを案内するようにと告げるだけ。

「お疲れになられたと思います。とはいえ、姫様の誕生日にいただきました祝いの令状もしたためないといけません。少し、お休みになられてからお時間をいただけますか? 紅茶の用意もさせております。お体を温めてから、お目通しいただければと思っております」

その声にアリシアはかすかに頷いている。それまでの、子供だからと甘やかしてくれる人だけではない。自分のやるべきことを見せてくれる人。でも、だからこそ自分はここにいるのだというかすかな自覚。
アリシアはもう一度だけフェルミナを見上げ、それから静かに王女宮の奥へと歩き出した。

その同じ朝、第六課では、別の静けさが支配していた。日常の政務記録や連絡文書の処理に加え、臨時の措置や記録補填までを担う、いわば“記録の何でも屋”。
この朝、執務机の一角では、若手書記官が政務通達を手に困惑していた。

「“随行者一名”。……これだけ、ですか?」

隣でそれを聞いていた人物が、無言で眉をひそめる。

「名がない。役職もない。“許可”だけで、帯同が正当化されている……」

手元の記録簿を見つめながら不思議がる若手に、エグバートはぽつりとこぼす。

「これは記録じゃない。──印象操作の一種だ」

それを耳にした年かさの記録官は、やや苦笑しながらも手を止めなかった。

「そうだな。だが、これを“処理”するのが、うちの役目だよ」

最終的な筆を走らせたのは、別の記録官。エグバートの手は動かない。それでも、彼は黙って処理を見届けた。帳尻を合わせることに納得はしていない。だが、ここが今の“王政”なのだと、彼は理解していた。

《王女殿下・随行者一名(帯同許可)》

《所属:非公式》

《補記:宮内より継続確認あり、異議なし》

それは、何も語らないようでいて、すべてを語っていた。

 

第2話 王女宮、動く

その朝、王女宮には、かすかな緊張とざわめきが満ちていた。侍女たちは早朝から動き回り、衣装を整えている。文官が届けてきた日程表に並んでいたのは、午前中の教会訪問と、午後の簡単な報告確認だけ。

学業と政務の両方をこなしている兄エドワルドの予定を知るアリシアから見れば、少し拍子抜けするような内容。だが、10歳の少女にとっては、そのくらいがちょうどいいのかもしれない。“王女としての第一歩”を踏み出すには、穏やかで無理のない始まりだった。

「アリシア様、準備が整いました」

王女宮の女官長であるフェルミナの柔らかい声が響く。その声に合わせるように、侍女のマティルダが銀の櫛で最後の仕上げを整えた。
アリシア自身は落ち着いた微笑みを浮かべ、背筋をまっすぐに伸ばしている。とはいえ、目元には緊張の影が残っているのは間違いない。

「うん、大丈夫。わたくしなら、頑張れる」

かすかに口からこぼれる言葉にマティルダが頷き、フェルミナが仕方がないわねというような表情を浮かべる。それを目にしたアリシアは目を閉じて、ひとつ深く息を吐いた。

「準備、できました。今から参ります」

椅子から立ち上がった姿見の中には、淡金のドレスに身を包んだ少女の姿がある。肩には紗を重ねたケープ。儀礼に則った装いながら、どこか着慣れない。けれど、それでいい。

扉が開き、控えの空気が静かに動く。アリシアを先導するように歩くのは宮廷女官。アリシアの後ろに従うのは、マティルダと王宮儀礼課の文官補佐。その後方に続くのが少数ではあるが、選別された近衛兵。もっとも、その中にゼノ・グラナートの姿は、見当たらなかった。

それはある意味で当然。彼は、学生という身分でありながら、例外的に王女付きの護衛を許されていたにすぎない。だからこそ、こうした公式の場に姿を見せることなど、あるはずもない。だが、そんなことをアリシアは知っているはずもない。

(どうして、いないのかしら? いてくれたら安心したのに……)

そんな思いを胸にしながら、アリシアは初めての公務に進み始めていた。

 

◇◇◇

 

その日の訪問先は、王都第一区にある大聖堂だった。白衣の神職たちは正面に整列し、深々と礼を取ってアリシアを迎えた。

「ようこそお越しくださいました、アリシア王女殿下」
「お待ちしておりました。聖堂一同、心より歓迎申し上げます」

その声音は穏やかで、格式に違わぬものだった。けれど、言葉の端々に、どこか慎重な色がにじんでいる。それは、アリシアの10歳という年齢と“公務としての初日”が重なっているのだろう。アリシアはそれを空気として感じたのか、小さく息を整えると、静かに一礼を返した。

「皆さま、本日こうしてお目にかかれたこと、心より嬉しく思います」

言葉は儀礼課から渡された定型文だったが、その声音には確かな意志がこもっていた。挨拶を終えた堂内には、淡い光が差し込む。大理石の床に、ステンドグラスの色が静かに揺れている。

アリシアは、ゆっくりと歩を進めた。献花の台の前で立ち止まり、教えられた通りに、頭を下げる。
その瞬間、自分が“見られている”ことを、強く意識する。それは、聖堂に集まっていた人々の気配を感じたからだろう。中には無邪気な子供の声も入っている。

「きれい……」
「ステンドグラスの天使さまの絵と同じだよね?」

神職たちはその声をあえてさえぎらない。というよりも、さえぎるつもりもなかったのだろう。アリシアの耳にかすかに届いてくる声。その時、彼女の胸の奥に、王女としての小さな決意が灯っていた。

 

◇◇◇

 

訪問を終えて王女宮に戻るころには、昼の陽射しが中庭に差し込み始めていた。午後からの初執務のため、アリシアは執務室へと足を向ける。部屋にかけられたレースのカーテンが静かに揺れ、窓の隙間から、ささやかな風が通り抜ける。

「……お帰りなさいませ、アリシア様」

出迎えた文官補佐が、手にした書類の束を執務机の上にそっと置く。

「本日分の報告書でございます。教会訪問の振り返りと、礼状の写し、それから──」
「次回日程の確認、ですね」

アリシアの声に文官補佐は軽く頷くと、淡い微笑みを浮かべた。

「内容はすでに通達済みでございます。殿下には、ご署名のみお願い申し上げます」
「わたくしは署名だけでいいのね?」

無邪気に問いかけるアリシア。その声には、わずかに安心したような響きがあった。文官補佐は微笑みながら、再び頭を下げる。

「はい。……けれど、殿下がご希望なさるのであれば、内容のご説明も――」
「うん……今日は、ここまでにしておく。次は少しだけ、説明してもらってもいいかも」

アリシアは、ふっと笑って答えた。子どもらしい笑顔の奥に、どこか王女としての気概が垣間見えた。その姿に文官補佐も微笑ましい思いを隠すことができない。

「はい、かしこまりました。まだ、お疲れも残っていらっしゃるでしょうから、ご無理のない範囲で。こちらに署名をいただいてもよろしいでしょうか?」

問いかけるような文官の言葉に、アリシアは頷くと小ぶりの椅子に腰を下ろす。そのまま、ゆっくりとした手つきで署名をしていた。

初めての公務という重責。それが終わったのを感じたのだろう。アリシアは、ふと息をつき、 背もたれに預けた肩から、少しだけ力が抜けていた。

「……思っていたより、大変だったかも」

独り言のように漏らしたその声からも緊張がほどける感覚がある。ただ、それはまだどこか不思議で。けれど、その頬には小さな達成感が浮かんでいた。

「お疲れ様でございました、アリシア様」

マティルダが、湯気の立つ紅茶と焼き菓子をそっと差し出す。その所作にも、朝のような緊張感はすでになかった。侍女たちも少女らしい声を張り上げ、宮全体に流れる空気も穏やかなものになっている。王女が“この場所に戻った”という現実が、彼女たちにとっても支えになっていたのだろう。

そんな中、アリシアの視線が控えの間の椅子に向かう。そこには、誰も座っていなかった。……でも、つい最近まで、あの場所にはいつもゼノ・グラナートがいた。

兄と同じ学園生。でも、“実地経験”という名目で一時的に王女宮へ帯同していた相手。彼は護衛でもなく、文官でもなく──それでも、いつも一定の距離を保ちながら、黙って彼女のそばにいた。

しゃべるわけでも、笑いかけてくるわけでもないのに、気配だけはちゃんと届いていた。まっすぐに伸びた背筋と、視線を向ければそこにある確かさ。……あの沈黙のなかに、どれだけ助けられていたのか。

いないのは分かっていた。兄エドワルドも同じ。授業や政務の都合で会えないことのほうが多かったはずだ。それなのに──なぜだろう。今日の公務を終えた今になって、ようやく、その空白が心の奥にじんわりと広がってくる。

(……どうしてなのかしら?)

だからといって、口に出すことではなかった。この不在は、記録にも報告書にも残らない。ある意味では日常の一コマ。けれど──今日という一日の記憶には、確かに残っていた。たったひとり、“いない”はずの誰かのことも含めて。

(いてくれたら、もう少し安心できたのかもしれない……)

自分でもわからない思いを持て余すように、アリシアは、そっと目を伏せていた。その視線は、誰もいない椅子にもう一度だけ向けられていた。

 

第3話 そばにいる人

その日の午後、アリシアの手元に届いたのは1通の通達文だった。

《王女殿下の外出に際し、グラナート家嫡子ゼノ・グラナートを随行させることを、政務官会議の決定により承認する》

決まりきった文面。ただ、そこに記された名前が、ぽつんと浮かんで見えた。

「殿下、お茶が入りました。──あら……どうなさったんです?」

侍女のマティルダが不思議そうに問いかける。アリシアは通達文を見せながら、首を傾げた。

「ゼノさまって、たしか……あの、この前……」

どう、言葉にしていいのかわからない。そんな気持ちが言葉を途切れさせたのだろう。そんなアリシアを安心させるように、マティルダが言葉をつなぐ。

「さようでございますね。それと……今回はご随行の辞令が下りましたから、明日からは正式にお付きになりますね」
「そ、そうなのね……」
「何か、気になることでもございますか?」
「う、ううん。なんでもない。ちょっと、びっくりしただけ」

そう言いながら、通達文をひらひらさせているアリシアの姿に、マティルダは手を差し伸ばしていた。

「お気持ちはわかりますわ。でも、こういう形が必要なのもお分かりですわよね?」

マティルダの言葉に、アリシアも素直に頷いている。たしかに、誰かが護衛として同行することは不思議ではない。ただ、アリシアの中でのゼノは「頼りになるお兄様」だった。それが、護衛という形になることにどこか不思議な思いだけが大きくなっていたのかもしれない。

翌朝。王女宮の扉が静かに開いたとき、アリシアの目にはすぐにゼノの姿が映った。紫紺に銀糸をあしらった軍装。近衛の制服と微妙に違っていても、銀が入っている。添えられているのは、結び目ひとつ緩みのない剣帯。姿勢も表情も、ぴたりと整っていた。

「……おはようございます、ゼノさま」

アリシアが声をかけると、ゼノはわずかに一礼し、すぐさま一歩下がって控える位置へと移った。──それだけ。返事もなく、目も合わせない。それなのに、いるべき場所に当然のように立っている。

「……なんだか変な感じ」

ぽつんと呟かれた声は風に乗って散っていく。その日も、王女宮はいつもと同じ朝の時間を迎えているようだった。

 

◇◇◇

 

この日の訪問先は、王都の郊外にある修道院が運営する孤児院だった。石造りの門の前で、修道士たちが一斉に頭を下げる。

「ようこそお越しくださいました、アリシア王女殿下」
「日頃より、温かいご支援を賜り、感謝申し上げます」

その声に軽くうなずきながら、アリシアは後ろに控える女官に視線を向ける。心得たように大きなバスケットを手にした女官が修道士に言葉をかける。

「こちら、王宮よりの品となっております。子供たちが健やかに暮らせるようにと王陛下よりもお言葉を賜っております」

その声に修道士たちの頭がさらに下がっていく。その中をアリシアは少し深呼吸して、一歩を踏み出した。その少し後ろ、ゼノが音もなくついてくる。そうやって、孤児院の廊下を進んでいく途中、世話役の修道女たちのひそひそとした声が聞こえてきた。

「……あの方、護衛の方でしょうか」
「……先日、お見えになられたときは、王太子殿下とご一緒でしたわね」
「どちらにしても、王族の方をお迎えできるのは、ありがたいことですよね」

ごく小さなささやき。それが気にならないといえば噓になる。でも、アリシアはまっすぐ前を向いて歩いていた。

(この前は、お兄様とご一緒したんだったっけ……でも、今日はわたしだけ……)

一人での訪問はたしかに心細い。でも、今日は後ろにいてくれる人がいる。それだけで、アリシアの気持ちはどこか安心するものになっているようだった。

案内された作業室には、机が並び、絵の具や糸巻きが棚に整えられていた。絵の具のにおいが、少しだけ漂ってくる。

「王女殿下のご来訪を、皆、楽しみにしておりました」

その声に合わせるように、小さな視線がいくつも集まってくる。アリシアは、ふいに足を止めた。──緊張、してる。小さな手が少し汗ばんでいる。でも、ここで不安な顔を見せるわけにはいかない。アリシアは思い切って声を出していた。

「……ほんとは来るの、ちょっと緊張してたの。でも、会えてうれしいです」

それは、用意されていた言葉ではなかったけれど──アリシアの中から自然と出たものだった。その瞬間、小さな男の子がひとり、前へ出てきた。上着の裾をぎゅっと握りしめて、アリシアを見上げる。

「……あの、そばの、おにいちゃん……」

ぽそりと漏らすような声。

「こわくないの?」

一瞬、空気が止まる。けれど、誰も止めようとはしなかった。アリシアは、ちょっとだけ考えて──それから、そっと笑って答えた。

「うん、こわくないよ。……あの人は、わたしのこと、護ってくれてるの」

男の子は目をまんまるくしたまま、こくんとうなずいた。

「ふーん……つよいんだね、きっと」
「うん、つよいわよ。だから、こわくないの」

自分でも、どうしてそう言えたのかわからなかった。でも、不思議とそう思えた。ちらりとゼノを見やる。彼は、やっぱり黙ったまま立っていた。

……それだけで、十分だった。

 

◇◇◇

 

帰り道の馬車は、王都の石畳をゆっくりと進んでいた。その馬車の中で、アリシアは大きく息を吐く。

「お疲れでございますか?」

アリシアを労わるようなマティルダの声。それに対して、肩をすくめながらアリシアは応えていた。

「思ったより緊張したの」
「さようでございますか。でも、ご立派でございましたよ」
「ほんとう?」

マティルダの声にアリシアの表情がフッとほころぶ。そのままの調子で、彼女は言葉を続けていた。

「だったら、戻ったらマティルダの紅茶が飲みたい。ね、頑張ったご褒美に淹れてくれない?」
「まあ、先ほどまでのご立派な王女様とは思えませんね」
「いいじゃない。だって、一人で頑張ったのよ」

子供らしい調子で話しているうちに、緊張も取れてきたのだろう。アリシアはそっと馬車の窓から外を覗く。そんな彼女の姿に気が付いたのか、通りがかりの人たちが立ち止まり、帽子を取ったり、手を振ったりしている。アリシアも、そっと手をふり返した。

「……みんな、優しい」
「王女様ですもの」

冗談めかしてマティルダが笑う。アリシアもつられて微笑んだ。ふと、視線を後ろへ向ける。馬車の窓から首をのばすようにして、そっとのぞき込んだ。

少し離れた場所、馬上で静かに馬車を追ってくる人影。紫紺に銀糸の制服姿。背筋はぴんと伸びていて、手綱を持つ指先も動かない。朝と同じ。あのときとまったく変わらない姿で、彼はそこにいた。

(……ずっと、見てたんだろうな)

子どもたちと話したときも、絵を見せてもらったときも、花をもらったときも──ひとことも喋らず、でも確かにそこにいた。あれが、“護ってくれてる”ってことなのかもしれない。

 

◇◇◇

 

「……ありがとうございました」

王女宮に戻り、一日をねぎらうつもりで小さくつぶやいたその声。彼にまで届いたかどうかはわからない。けれど、そう口にしたことで、ほんのわずかに胸の奥が軽くなるのを、アリシア自身も感じていた。

黙ったまま何も言わなくても、そこにいてくれる人がいる。それが少しだけ、うれしかった。
どうしてそう思うのかはわからない。でも、安心できる。それはきっと、彼がこの一日を通して、静かに教えてくれたことでもあった。

 

第4話 名前を呼ぶこと

その朝も、控えの間にはいつもの気配があった。ゼノ・グラナートが静かに入室し、壁際に控える。足音はほとんど聞こえず、背筋はぴんと伸びたまま動かない。だが、それがいつものことになった。アリシアはそんなことも感じていた。

「おはよう、ゼノ様」

その声に、ゼノは静かに一礼しただけで、何も言わない。最初のうちはどうして、という気持ちが強かったように思う。アリシアにとって、ゼノは護衛というよりも「お兄様も知っている人」という思いが強かったからだろう。

(お兄様に似ている?……でも、ちょっと違うかも)

王女宮という閉ざされた場所で暮らしているアリシア。だからこそ、兄であるエドワルドしか比較できる相手はいない。そして、兄に感じるものと似たものをゼノにも感じていることにちょっと首をかしげてもいた。

(どうしてかな? うん、やっぱり、いてくれると安心するのかも)

ようやく、自分の中で気持ちが整理できたのだろう。アリシアの表情が少し柔らかくなる。そんな時、フェルミナが静かに入室してきた。その手には今日の予定が書かれたものがある。

「アリシア様、おはようございます。本日の予定ですが、よろしいでしょうか?」
「ええ、いいわ。今日はどんな予定があったの?」

かしこまったような調子だったのに、急に言葉が砕ける。その姿に少し困ったような表情を浮かべながらも、フェルミナは淡々と予定を告げていた。

「本日、午前は先日の視察報告の文書を仕上げていただきます。午後は礼法の教師が参ります。お言葉使いなど、ご注意いただけますように」

フェルミナの最後の言葉は、先ほどの言葉の乱れを注意してくれている。そのことがわかったアリシアはこくんと頷いていた。

(やっぱり、難しい。でも……これって大事なことなのよね)

少しずつではあるが、本宮殿にも足を踏み入れるようになっている。そこで目にするエドワルドは兄の顔をしていない。そのことを思い出したアリシアは、改めて言葉を口にしていた。

「予定の連絡、ありがとう。では、もう少ししたら書類を見る部屋に移動します」
「かしこまりました。マティルダに紅茶を用意させております。それをお飲みになってから移動をお願いいたします」

フェルミナの声に部屋の空気が動く。
どうしてなのかと思ったアリシアの視線からゼノの姿が消えていた。

(どうして? あ、わたくしが場所を変えるからなの?)

今までに経験した公務のおかげで、護衛が先回りして確認することがあることはわかっている。だからこそ、ゼノがその場から消えた理由もわかっているはず。だというのに、どこか不安になるような気持ちが彼女の中にあるようだった。

(うーん。どうして、気になるの?)

もっとも、そんなことを口に出せるはずもない。アリシアは何事もなったような顔でフェルミナに導かれながら紅茶の用意された席についているのだった。

 

◇◇◇

 

午後の陽がやわらかく傾く頃、アリシアは小さな庭園の縁石に腰を下ろしていた。足元には整えられた芝と夏を彩る花々。さわりと風が吹き抜け、花びらがひとひら舞い落ちる。

今日は礼法の授業もあり、思った以上に気を張っていたのだろう。アリシアは小さく息を吐いた。

「お疲れでございますか?」

振り返ると、銀の盆を手にしたマティルダが歩いてくる。

「う~ん、どうなのかしら? 疲れたような、そうじゃないような感じ? 礼法の先生って厳しんだもの」

不満げに口をとがらせる姿。フェルミナの前では見せないが、マティルダが相手だと気も緩むのだろう。言葉使いもどこか幼くなっている。そんなアリシアの様子にマティルダは少し困ったような、それでも優しい視線を投げていた。

「では、ちょうどよかったですわ。冷たいお茶をご用意いたしました」

注がれた茶を口にすると、肩の力が抜けたのだろう。カップを手に夏の空を見上げている。

「おいしい……」
「それはようございました」

マティルダは穏やかに微笑む。フェルミナから内々に、今日の予定はすべて終わっていることを告げられている。だからこそ、彼女はアリシアをせかすことなく、二人でいる時間を大事にしようとしているようだった。

しばらく二人で庭を眺めていたが、ふとアリシアは何かに気が付いたように、辺りを見回した。

「あれ……?」
「どうなさいました?」
「ううん」

そう答えながら、もう一度視線を巡らせる。いつもなら見えているはずの人影がない。木陰にも。回廊の近くにも。見当たらない。

(どこへ行ったのかしら)

そう思った瞬間。少し離れた植え込みの向こうに、見慣れた紫紺の制服が見えた。

(あそこにいたんだ!)

どうしてなのかはわからない。それでも、見慣れた姿を見つけたことで安心したのだろう。アリシアは無意識のうちに息をついていた。

「アリシア様? どうかなさいましたか?」

マティルダの声がどこか心配したようなものになっている。そこのとを感じたアリシアは、慌てて首を振る。

「なんでもない。うん、なんでもないわ」
「さようでございますか?」

マティルダはそう言いながらも、アリシアの視線の先を追っていた。そして、すぐに気付いたように小さく笑う。

「グラナート様を探していらしたのですか?」
「ち、違うわ」

反射的に否定したものの、自分でも何が違うのかわからない。

「ただ、見えなかったから」
「護衛ですもの。周囲の確認をしているのでしょう」
「だから、そうじゃないって」

マティルダの言葉に頬をふくらませながら反論しているアリシア。とはいっても、護衛が周囲の確認をすることは仕事として当然なのはわかっている。それが自分の生活する場所である王女宮であっても変わらない。
むしろ、公務に出るようになってからは、護衛が先回りすることがあるとも覚えた。

それなのに。
姿が見えないと、少しだけ落ち着かない。見慣れた紫紺の制服が見えると安心する。なんといっても、近衛の銀とは色が違うのだ。目立つからというのもあるのは間違いない。

(……ゼノ様がいると安心するのよ。う~ん、どうしてなのかな?)

その理由は、自分でもよくわからなかった。

「でも、不思議ですわね」
「なにが?」
「最初の頃は、グラナート様がいらっしゃると緊張なさっていたでしょう?」
「そうだったかしら」
「ええ」

マティルダはくすりと笑う。

「今は、いらっしゃらない方が気になるようです」
「そんなこと……」

否定しかけて、言葉が止まる。たしかに。少しだけ。ほんの少しだけ。気になった。

ツンと横を向きながら、アリシアは言葉を続ける。

「だって、護衛だもの」
「はい」
「ちゃんといてくれないと困るでしょう?」
「そうでございますね」

完全に納得しているとは思えない返事だったが、マティルダはそれ以上何も言わなかった。

そのときだった。

「殿下」

聞き慣れた声がした。振り向けば、ゼノが静かに一礼している。

「周囲の確認が終わりました」
「そう。ありがとう」

それだけ答えながら、アリシアは少しだけ胸の奥が軽くなるのを感じた。理由はわからない。けれど――。

やっぱり、そこにいてくれると安心する。

そんなことを思いながら、アリシアは再びお茶に手を伸ばした。

 

第5話 積み上げられた記録

──今朝、また一つ、“前例”が作られた。本来であれば、それは一報として上がってくるだけの軽微な事項だったはずだ。王女殿下の庭園散策に、正式護衛の近衛騎士ではなく、グラナート家の嫡子が同行していた。ただ、それだけの話でしかなかった。

だが、問題はそれが初めてではないということだった。同じような記録が、すでに複数回。──それを、“前例の積み上げ”と呼ばずして、なんと呼ぶ。

記録課書記官として、否応なく目にする文書の数々は、否応なくその現実を突きつけてくる。命令系統の記録はない。けれど、王女宮の日誌には「ゼノ・グラナートの同行」が、何度もごく自然に記録されていた。まるで、それが“当然のこと”であるかのように。

(……グラナート家の家宰が動いている)

確証はない。だが、感触はある。あれほど静かに、かつ、着実に記録と実績を積み重ねられるのは──文官仕込みの手腕を持つ者でなければ、不可能だ。

(このままでは、いずれは“公認の並び”になってしまう……)

政務棟の廊下を歩きながら、フロイはわずかに眉をひそめた。外見に出すほど愚かではない。だが、胃のあたりに鈍い痛みを感じるのも事実だった。

「……リースフェルト、次の確認書式はこっちだ」

背後から、年若い声が書類束を掲げて追いついてくる。振り返ると、そこにいたのは同僚である記録課の文官。きびきびとした足取り、だがどこか寝不足のような目元。

「ありがとう。昼食のあとに通す予定の承認印はこちらで」

フロイが無言で書類を手に取ると、相手は少しだけ声を潜めて続けた。

「……知ってるか? “彼”の同行記録、また入ってきてたぞ。今回は三日前の庭園散策分」
「ああ。確認済みだ。気づいたか?」
「……まあな。正直に言って、精密としか言えない。事後の文書調整が完璧。形式的には一切の瑕疵がないなんてなぁ」
「だろうな。──あの書き方、儀礼課上がりだろうな。そういえば、あの家の家宰、そこの出だったよな?」
「儀礼課を泳ぎ切った狸だろう? 有名だからな。先輩たちが相手にしたくないと苦虫潰していた理由がわかるよ」

同僚の言葉にフロイは肩をすくめる。そういえば、儀礼課にいる兄からも聞いたことがあるなという記憶。同じ儀礼課の人間でも相手にしたくないと感じている古狸、という印象を受けた。その相手が動いている。――正直、考えたい話ではなかった。

フロイは立ち止まり、廊下の窓から外を見た。朝の光が差し込む先に広がる庭園。だが、そこにいるはずのない人影を見たようにも思う。おそらく、先ほど目にした文書の影響だろう。庭園を散策する小柄な少女と、その傍らに並ぶ紫紺の衣をまとった青年の姿。

──別の日に、たしかにその並びを見た。その時に感じたのは、絵のような風景。あまりに自然で、整っていて、違和感がない。けれど、それこそが最大の問題だった。

(……違和感がない、ということは、“受け入れられつつある”ということだ)

王族にとって、“印象”は武器であり、盾でもある。たとえ正式な布告がなくとも、周囲がそれを当然と受け入れれば、いつしかそれは既成事実となる。記録課の文官として、その理を知らぬわけではない。

──けれど、ではそれが本当に“王女殿下の望むもの”なのか。そう問われたとき、自分は自信を持って頷けるのか。

「リースフェルト?」

肩越しに呼びかけられて、フロイは小さくかぶりを振った。

「いや、何でもない。……このまま記録課に戻ろう。どうせ、今日も書類の山だろうし」
「仕方ないな」

足音をそろえて再び歩き出す。けれどその脳裏には、幻想の光景が、残像のように焼き付いていた。

 

◇◇◇

 

報告書の束を脇に置き、ようやく席を立ったのは、正午を過ぎようという頃だった。政務棟の廊下を歩きながら、フロイは無意識に手帳を繰る。午後の予定は王女宮での昼餐会の補佐。出席者の肩書きと席次が走り書きで並んでいた。

(……なんでまた、こっちに回ってきたんだか)

舌打ちは飲み込んだ。庶務課の人員が不足しているのは確かだし、王女殿下としての公務も増えてきている。そして、王女殿下に関する案件には、厳密なチェックが求められる。誰がどこに座り、誰と何を話したか──その一つひとつが、記録として残されるのだ。

それだけではない。王女殿下に関する記録は、通常の政務記録とは別に管理される。公務先、出席者、同行者、贈答品の記録──一つひとつは小さな報告でしかない。だが、それらは後になって前例となり、慣例となる。だからこそ、記録課は些細な差異も見逃してはならない。

今回、予定されている昼餐会の会場は、王女宮の中でも自由度の高い小広間だった。扉を開けると、すでに料理が並び始めており、侍女たちが静かに立ち働いている。後宮ではあるが、男性が立ち入ることを許されている場所。そんな独特の空気が流れ、淡い光が白いクロスを柔らかく照らしていた。

(……規模は小さいが、形式は“昼餐会”そのものか)

まだ12歳の王女に夜会や舞踏の席は早い。だからこそこうした昼の会食が、礼儀作法や人とのやり取りを学ぶ場とされている。招かれるのも、縁戚や有力家門のごく限られた顔ぶれだが──だからこそ、席次の一つひとつが意味を帯びるのだ。

「ご苦労さま、リースフェルトくん」

声をかけてきたのは、儀礼課の年長職員だった。フロイよりも十歳は上だが、威圧感のない穏やかな人物である。

「こちらの控えが、出席者の最終名簿です。リースフェルトくんも確認してください」
「ありがとうございます。席次に変更はありましたか?」
「いえ、ありません。王女殿下の左隣は、予定通りグラナート家公子、ゼノ・グラナート殿となっています」

その言葉に、フロイの指が一瞬だけ止まった。だが、それはほんのわずかな間でしかなかった。

「確認しました。では、控えは第六でも保管します」

淡々と応じたつもりだった。けれど──

(……やっぱり、そうなるのか)

内心で、思わず息を吐いた。この数か月で、ゼノ・グラナートの扱いは、明らかに“変化”していた。

最初は、あくまで王女殿下の救出に尽力した“功労者”。その次は、随行護衛を任された“信頼できる随員”。そして今や──教育の場であるはずの昼餐会で、王女殿下の左隣に座るのが、ごく自然な並びとされる存在になっていた。

本来であれば、席次は家格と関係性で決まる。まして王族も参加する席であればなおさらだ。だが今回の名簿を見ても、そこに不自然な点は見当たらない。むしろ自然すぎるほど自然だった。だからこそ、フロイはため息をついてしまう。

とはいえ、今回の席次は、記録上でもなんら問題があるわけではない。王女の信頼が厚く、実績も十分で、家柄も王家に匹敵する。理由なら、いくらでも挙げられる。けれど、文官として、実務の裏にある“空気”を読み取るのが仕事であるならば──これは、ただの偶然ではないと感じざるを得なかった。

(……既成事実、というやつだな)

フロイは、再び無言で手帳に視線を落とした。誰も言葉にはしない。されど、誰もが“そういうもの”として受け入れていく流れ。実務記録の片隅に、静かに積み重ねられていく──もうひとつの、真実。

 

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