第2章 戻った王女、戻らぬ真実

第1話 居場所が判明した夜

王城北棟にある魔術局の小部屋。そこでは、夜通しの魔術解析が続けられていた。

「……座標、確定しました」

白衣の術師が、小さく息をつく。

炎月五日の騒動以来、休む間もなく張り詰めた緊張が続いていた。だが、王女の安否がかかっている。それだけに、不満を口にするわけにもいかない。

今は炎月六日の夕刻。部屋の床に隠された魔法陣。その術式を読み取るには時間がかかる。始めてから一日がすぎるかどうかという時間で、よくぞ解析できた。術師たちはお互いの健闘を讃えるかのように、互いに頷いていた。

彼らの視線の先にあるのは机上の地図。魔法陣に組み込まれていた座標が指し示した場所は、王都北西。かつて使用されていた山道の奥――現在は、貴族の隠棲地として登録された”山荘”。

にわかに信じることはできない。だが、魔法陣に刻み込まれた座標は、終着点がそこだと告げていた。

  

◇◇◇

 

「殿下、最終報告です」

側近が差し出す書状を受け取ったエドワルドは、それに静かに目を通す。ようやく、道筋が見えた。そう感じた彼は、深く息を吐いた。

「……正式に動かす。命令書を」
「どちらに、任を?」
「グラナート家だ」

ためらいはなかった。この件において、武門の威を借りずに済ませられるはずがない。その場合、どこを選ぶのか。”王の剣”とも称されるグラナート家以外を選択する理由があるはずもなかった。

炎月七日の早朝。
命令書は、正式にグラナート公爵──エルネスト・グラナートへと届けられた。
文面を読み終えたエルネストは、静かに命令書を机に戻し、傍らに立つ息子に視線を向けた。

「……殿下は我が家に賭けたな。王女を救えと。名目は、あくまで“安否確認”だが」

ゼノは無言でその言葉を受け止めていた。けれど、指先はわずかに震え、拳を握る力が強くなる。

「ならば、それに応えるまでだ。行け、ゼノ。我が名において、この任を託す」
「……必ず、やり遂げます」

声はわずかに荒く、息が混じった。昂ぶる思いを押し隠そうとしても、若さは隠しきれない。
エルネストはわずかに笑みを浮かべ、手元の茶器に手を伸ばした。

「……任せたぞ」
「心得ております」

ゼノは頭を垂れ、静かに執務室を辞す。その直後、廊下に控えていた副官が駆け寄る。

「若様、出立の御指示は?」
「──明日の夜明けには出る。全員、すぐに準備を整えろ」

思わず強い調子で言い切った声に、副官は一瞬目を見開いた。自分でも早口になったと気づき、ゼノは小さく唇を噛んだ。

その夜半過ぎ──偵察隊からの帰還報告が届く。

「目的地──確認しました!」

明らかに昂ぶっている興奮気味の声が、騎士団の待機室に響く。

「王都から北西、山道を外れた高台にある山荘。
屋敷の外周に複数の結界と警戒陣の痕跡。
内部に複数の生命反応。──うちひとつが、王女殿下の魔力波と一致しました!」

その報告に、ゼノの目が鋭く光る。口元は動かさずに頷いたが、胸の奥で高鳴る鼓動が呼吸を乱しそうになる。その若さを隠すように、ただ拳を強く握りしめた。

 

◇◇◇

 

出陣前のその夜。準備のために愛剣の手入れをしていたゼノの思いは深く沈んでいた。
王女がいなくなった。その事実が、胸の奥に沈めていたものを、静かに揺り起こす。

あれは翠月(すいげつ)十日、午後。見習い騎士だった頃のことだ。

陽の光が白い花壇を照らし、風がスズランの鈴を揺らす中、道を迷っていた。どこで道を違えたのか、まるで見当がつかない。

(まずいな……)

王宮には、見習い騎士の出入りも多い。だが、ここは明らかに“それ”とは異なる領域だった。石造りの回廊はやけに白く、足音も吸い込まれるほど静かで。すれ違った誰かが、悲鳴を殺すように口を覆ったのを思い出す。

(まずい。まずい。まずい──)

「……どうしたの?」

その声に、心臓が跳ねた。

振り向くと、白いワンピースを着た少女がいた。花のような金髪、澄んだ青の瞳。年の頃は……五つくらいだろう。それでも、立ち姿は妙に凛としていて、そこにいるだけで場が引き締まる。

──特別な存在。そう、確信できるほどに。

「……いえ。あの……通行許可のある者です。すぐ、戻りますので」

声が裏返るのを必死に抑えながら頭を下げる。けれど彼女は、ふうん、と首を傾げて──

「じゃあ、どうして、そんなに困った顔してるの?」
「……え?」

思わず声が詰まる。そんな彼に向って少女はこくりと首をかしげながら言葉を続ける。

「困っているのなら、助けるのが当たり前でしょう?」

そう言って、彼女は──まっすぐ、手を伸ばしてきた。小さな、けれど、まっすぐな掌。何の打算もない、ただの“善意”。

「……案内してあげる。わたし、ここの道は、けっこう詳しいのよ」
「……あの、でも、それは──」
「いいの。わたしがそうしたいの」

笑って、彼女は一歩、近づいてくる。その笑顔を、見た瞬間──胸の奥が、きゅう、と締めつけられた。

(……初めてだ)

こんなふうに、何の価値もない自分に、迷いなく手を差し伸べてくれたのは。

「行きましょう。あっちのほうなら、きっと戻れる道があるわ」

「……はい」

その手を取った瞬間、世界が、すこしだけ、光に満ちた気がした。だが、その光に手が届かないのではと思ったのも事実。

その日から2年後のあの日が決定的だった。

あの日は14歳になった王太子エドワルドの側近候補として集められた日だった。

なかなか姿を見せない王太子に、集められた者たちの苛立ちも高まっていく。そんなとき、王太子は一人の少女を伴って姿をみせたのだ。

「殿下」

いくつもの声が重なり、緊張した空気が流れる。その中で、ゼノの思わずもらしたつぶやきが、全体の空気を凍らせる。

「……ちっちゃい……?」

エドワルドが少女を伴って現れた時点で、少年たちは動揺を覚えていた。

誰もが、どうして?という思いをもつ。だが、彼の表情は至って平静で、それを咎めるような空気を寄せつけない。

「いい機会だから、紹介しておくよ。……妹のアリシアだ。まだ7歳だけど、よろしく頼む」

そう言って、穏やかにアリシアの肩に手を添える。

アリシアは小さく頭を下げ、緊張の面持ちで「こんにちは」とだけ告げた。

他の少年たちが表情を取り繕う中、ただひとり、ゼノだけが無言のまま、その場に立ち尽くしていた。

──あのときの少女だ。二年前、迷い込んだ先にいた少女。おそらく、そうではないかと思っていたが、本当に王女だったとは。胸の奥が、ざわりと騒ぎ始める。

「アリシア、挨拶を済ませたなら、そろそろ部屋に戻りなさい。今度は約束を守るからね」
「……うん」

短い会話のあと、アリシアは再び頭を下げて、控えていた乳母の元へと歩いていく。扉が静かに閉まるまで、エドワルドの視線は妹の背を見守っていた。そして、何事もなかったように席へと進む。

「では、あらためて始めようか。……各位、今日は時間を割いてくれて感謝する」

その言葉とともに、場の空気が切り替わる。王太子としての顔に戻った彼の姿に、誰もが自然と背筋を伸ばしていた。ただ一人、ゼノを除いて。

(……やはり、届かない相手だったのか?)

淡い憧れのようなものが、ゆっくりと、痛みに変わっていくのを感じながら──

室内にチンと剣が鞘に収まる音が響く。

胸の奥に沈めていたものを浮上させた彼の瞳には、まぎれもない決意だけが浮かんでいた。

 

第2話 手のひらに残るぬくもり

午後の光が、あたりを優しく照らす。山あいを満たしていた霧が、少しずつ消えていく。柔らかい風が、木々の梢をやさしく撫でていった。

その中を、ひとりの影が進んでゆく。
セイル・クレイド。王立学園に庶民ながら首席合格を果たした麒麟児。だからこそか、その瞳には、貴族や騎士のものとは違う、研ぎ澄まされた意志が宿っていた。

(……この先だ)

道しるべのない山道。だが、どこか気配が違う。そして、二日前、炎月五日の夜のことがある。
その夜、名乗らぬ使者が届けた封書に書かれていたのは、ただひとこと。

『……君にしか頼めない』

この言葉がどれほどの重みを持つものか。そして、その先にいるのは、一度だけ王城で見かけた姿。それだけのはずなのに、なぜか記憶に焼き付いて離れなかった。

王女が姿を消した。その報せを受けた翌日、セイルは独自に動き始めた。
だが学生の身で得られる情報には限りがある。そしてその夜──再び王宮から使者が訪れた。

手渡されたのは、一枚の紙。簡潔に記された座標と、主の言葉を預かっているという口頭の伝言だった。

『まだ公にはできぬ。しかし──これが、鍵になる』

座標が示していたのは、王都北西の山中にある“山荘”。ただ、地図には記されていないのが不気味さを感じさせる。

(間違いない。アリシア様は、ここにいる)

崩れかけた石塀の影に、そっと身を沈める。木々の合間に、古びた屋敷の屋根がのぞく。その傍らには、塔のように細く伸びた煙突。

──けれど、煙は出ていない。動く気配もない。あまりにも静かすぎる、その沈黙が──不気味だった。

 

◇◇◇

 

夜の帳が、山道を静かに包みこんでいた。王都を発ったのは夜のあける前。急ぎ足で進軍した一行は、日が傾く頃には目標地点に到達していた。

昼の暑さが嘘のように引き、霧が深まり始める山中。兵たちは息を潜め、気配すら殺して配置につく。

「──報告、入りました」

霧が晴れきらぬ山林に、銀の外套が揺れる。王命を帯びた出動の証として、ゼノ=グラナートはその色を纏っていた。小高い岩場に立ち、封鎖網の全体を見下ろす。

「周囲、全方位からの包囲完了。
屋敷内には複数の熱源反応。
そのうちひとつが、王女殿下の魔力波と一致──ただし、位置不明です」
「……よし」

わずかに頷き、ゼノは視線を山荘へ向ける。そこには、微かな灯りすら見えない。まるで、すでに廃墟であるかのような静けさ。しかし、嵐を避けるかのように身を低くしているようにも感じられる。だからこそ、彼は確信していた。この奥に、確かに“彼女”がいることを。

「突入は──俺が指揮する」

思わず声が荒く出て、ゼノは短く息を吐き、抑え込むように続けた。

「裏口を閉めろ。通路を一つでも残せば、奴らは逃げる」

肩に力が入りすぎているのを自覚しながらも、命令を畳みかける。

「はっ!」

騎士団員たちが静かに動き出す。声を上げず、鎧の音を最小限にとどめながら、定められた配置につく。魔術通信で各班の動きが確認され、遅滞なく包囲が収束していく。

その間にも、時間は過ぎていく。やがて、ゼノは静かに呟いた。

「……もし先に誰かが踏み込んでいたとしても」

声は低く震えていた。

「王命を受けているのは、俺だ」

それは誰に向けたものでもなく、焦りと決意がせめぎ合う自分自身への言葉だった。

 

◇◇◇

 

重く沈むような静寂が、山荘の内部を支配していた。山荘外周に人気がないことを確認できたのは昼過ぎ。夕刻ちかい今では、誰かがやってくる可能性も高い。

(この奥に、何かがある……)

そう思わせるだけの、空気の重みがあった。何かを封じ、隠し、覆い隠そうとする結界の名残。術式は簡素だが、外部からの侵入を拒むには十分な“意志”を帯びている。もっとも、鍵の構造は古い。セイルは立ち止まり、壁際に手を添える。そこには、目視ではわからない“仕掛け”があった。

(ここだ……)

ようやく、隠されていた入り口をみつけた。そう思ったセイルは封された魔術の解除を試みる。

(できるか? でも、やらないといけない……)

指先が震えた。けれど、立ち止まる理由にはならなかった。扉の内側から、ごく微細な魔力の波が漏れている。

奥へ、さらに奥へと。重く淀んだ空気をかき分けるように進み、明らかに気配の異なる扉の前で、セイルの足は止まった。

──カチャリ。音を立てて、扉が開いた。そこに、彼女はいた。薄暗い部屋。光源は壁際の燭台に残る、わずかな灯だけ。その中心に、椅子に座ったひとつの小さな影──

セイルは、ゆっくりと歩み寄り、膝を折る。

「王女殿下……」

その声に、アリシアの目がかすかに揺れた。だがすぐに見開かれ、彼を見つめる。

「……だれ……?」

声がかすかに震えていた。

「王太子殿下の命を受けた、セイル・クレイドと申します」

その声に、アリシアの目が大きく見開かれる。不安と安堵がいっしょくたになったような表情に、セイルはそっと手を差し伸べた。

「さあ、お立ちください。もう大丈夫です」

その言葉に、アリシアはこらえきれず、瞳から涙をこぼした。

「……こわかったよ……っ ……ひとりで……ずっと……」

そう言いながら、か細い手を彼へ伸ばす。その声にセイルの胸も大きく揺れる。差し伸ばされた手を取ろうとした時――

──バンッ。扉が大きな音を立てて開かれた。

「アリシア様!」

力強く、けれど焦りを孕んだ声が、部屋の空気を切り裂く。銀の外套が翻る。ゼノ・グラナートが、剣を帯びたまま、駆け込んできた。

「っ……!」

セイルの手が止まる。アリシアもまた、身動きを止めたまま、目を見開いている。

ゼノは一直線に距離を詰め、少女の前に膝をつくと──その身体を迷いなく、抱き上げた。その時、アリシアの小さな手が彼の軍服の胸元をきゅっと握る。そこには見慣れた近衛のまとう色と同じ銀が見えたからだろう。

儚げに見える手だが、つかまれたことでゼノは安堵の息を漏らしていた。小さな肩が小刻みに震えているのも見える。

「無事ですか、アリシア様……!」

声には、震えよりも安堵と……わずかな焦燥が混ざっていた。そして彼は、その背に視線を向けることはなかった。セイルの存在は見えている。手を差し出していたことも、アリシアが何かを言いかけていたことも、分かっている。けれど、この場で王女を保護すべきなのは、自分だ。

(命を受けているのは、俺だ。この任を、誰にも譲る気はない)

それは責任であり、誇りであり、そして、抗いがたい衝動でもあった。

「……ゼノ……さ、ま?……」

かすかに届く声に、ゼノの腕の力が強くなる。そんな彼の耳に、アリシアの嗚咽を含んだ声が届いていた。

「お父様に……お兄様に……会いたいの……」
「はい、大丈夫です。わたしがアリシア様を王城までお連れいたします」

その声に安心したように、アリシアのしゃくりあげる声が室内に響く。それは緊張がふっとほどけたことからの安心もあるのだろう。

彼女を腕の中におさめたゼノは、セイルへ視線を向けなかった。礼も、確認もない。ただ腕の中の王女だけを見つめたまま、踵を返す。そして、セイルはアリシアに向けて差し出していた手を、ゆっくり引いた。

「……ゼノさま。来てくれてありがとう……」

腕の中にいるアリシアのかすかな声。それを耳にしただけで、彼の中には言いようのない安心感が育っているのだった。

 

◇◇◇

 

差し伸べた手は、空を掴んだままだった。目の前で、ゼノ=グラナートがアリシアを抱き上げる。鋭い動きに迷いはなく、どこか焦燥すら感じさせるその背には、ひとつの信念が宿っていた。

(王命……)

そう、自分もまた、その命に従ってここに来たのだ。そして、アリシアは震える手を、こちらに伸ばそうとしてくれた。

たった数歩。もう少し早く駆けつけていれば──そんな後悔が、胸をかすめる。けれど今、彼女の身体は別の誰かの腕の中にある。自分の声にも、手にも、もう届かない場所で──

結局、何も言わないままセイルは立ち上がり、静かに一歩後ろへ退いた。

(抱き上げる役目じゃない。名を呼ばれるために来たわけでもない)

そう言い聞かせながら、彼は一礼すると、足音も立てずに部屋を後にした。廊下には、すでにゼノが率いてきた兵たちが駆け込んでいる。屋敷の安全確認が進められ、連絡役の兵が次々と外へ向かって走っていく。

喧騒の中、セイルは誰とも目を合わせず、ひとり静かに山荘の裏手へと抜けた。手のひらに、あの温もりが残っている。ほんの一瞬。触れようとした、小さな手の柔らかさ。

(……よかった。間に合って)

そう思う自分がいる。でも、そう思おうとする自分が、少しだけ、つらかった。

「地下室、制圧完了! 目標、確保!」
「抵抗はなし。拘束対象を確認──」

背後から聞こえてくる報告の声に、セイルは振り返らなかった。夜の山風が、草を揺らす音がした。その音に紛れるように、セイルはひとつ、静かに息を吐いた。夜風の中、彼はその“何か”に名をつけぬまま、静かに歩き出した。

 

第3話 褒章と沈黙

──褒章は出す。だが、それが表沙汰になることはない。

その声は若いのに、逃げ道を残さなかった。王城の一室というよりは、質素な応接間。アリシアを救出した翌日、密かにそこに呼ばれたセイルは、正面からそう告げられた。

「……あの場に君がいたことは、記録されることはない。今回の件は、“旧禁術封印区域における災害対応”という形で処理をする。すまない」

淡々と語られたその言葉に、セイルはただ首を横に振った。

「……殿下、謝らないでください。僕が……頼まれて、動いたんです」
「だとしても、君は妹を見つけ、無傷での保護を可能にした。礼を言う」

エドワルドの目は、どこまでもまっすぐだった。高位者にありがちな“慰め”ではない。本気で、セイル個人を認めようとしている。だからこそ、セイルもまた、まっすぐに言葉を返した。

「一つだけ、お願いがあります」
「……なんだ?」

わずかに身を乗り出す気配。喉が鳴った。

「褒章も地位もいりません。僕はただ――」

この先を口にすれば、戻れない気がした。それでも、セイルは口を開いた。

「アリシア様の、そばにいさせてください」

その言葉に、エドワルドの眉がかすかに動いた。

「君は、まだ学園の一年生だ。それを望むと……周囲が黙っていないぞ」
「それでも、望みます。……他には、何も要りません」

しばらくの沈黙。やがて、エドワルドは小さく笑った。

「金銭でも、地位でもなく、か。変わった男だな、君は」

嘲りではなかった。むしろ、困ったような、それでいて少しだけ羨ましげな笑みだった。

「分かった。ならば条件をつけよう」

王太子の声に、セイルは目を見開いた。

「三年後──王立学園を首席で卒業すること。それができたら、文官補佐として私の元に迎える。アリシアの傍付きとなれる保証はないがな」
「……!」
「これは私個人の約束だ」

エドワルドは静かに言った。

「だが、私が王太子でいる限りは守る。……いいな?」

何も言えなかった。ただ、強く頷いた。握りしめられた手のひらが、汗で滑るようだった。

 

◇◇◇

 

朝の陽が、白い石畳をまばゆく照らしていた。王城中庭──その中心に据えられた式台では、これから執り行われる「禁術災害対処功績者褒賞式典」を前に、すでに多くの人々が整列を始めていた。

正装の騎士たち。文官たちの筆と記録板が、いくつも光を受けている。並ぶ衛士の槍先は一糸乱れず、空を向いていた。

式台の中央にある背中は──ゼノ・グラナート。王命により旧封印区域に派遣され、制圧を完了させた者として、今日の栄誉を受け取る人物。

玉座の間から、王の名代として、エドワルドが姿を現した。式典の壇上では、ゼノ・グラナートが深く頭を下げている。その姿を見たエドワルドの表情が、わずかにこわばった。

だが、式典は進行していく。剣の献上。叙勲の辞。盛大な拍手が、空に響く。そして、この直後に設けられた王との謁見で──ゼノは、誰も予想しなかった言葉を口にした。

「……王女殿下のそばに、置いていただきたい」

ゼノのその言葉に、その場にいた他の3人の動きは止まったようだった。感謝の手を差し伸べかけた王は凍り付き、王太子は息を呑む。ゼノの父であるグラナート公エルネストは、信じられないものを見たという表情を隠せなかった。

「ゼ、ゼノ……!」

王の前であるにも関わらず、父の叱責が息子へととぶ。王は何も言わない。表情を改め、親子の姿を静かに見つめている。そして、王太子は昨日のセイルとの約束が頭をよぎっていた。そんな、彼の口からは穏やかな声が紡がれる。

「父上、褒章とはそのようなものでしょう」
「なぜだ?」
「いまさら、グラナートが地位や名誉を欲するはずもない。ならば、当事者の望みが最優先でしょう」

エドワルドの声は正論としか言いようがない。とはいえ、ゼノが地位や名誉を望むと言ってしまえば、話は簡単だった。家督を継ぐ前に爵位を得る道も、確かにある。だが、彼はそれを選ばなかった。それらはすべて、あとからでも手に入るものだったからだ。

名は功績に付いてくる。地位は、必要とされれば自然に与えられる。けれど──彼が望む時間だけは、今この瞬間のもの。だからこそ、ゼノ・グラナートは、あえて最も厄介で、最も誤解されやすい願いを口にした。

「グラナート公、少し時間をもらえるか。ゼノ・グラナート、望みはたしかにきいた。この件については、後日、正式に返事をする」

王の声に親子は静かに頭を下げることしかできないようだった。王女は戻った。だが、その帰還の裏で交わされた言葉を知る者は、まだ少なかった。

 

◇◇◇

 

式典が終わっても、王宮の空気は落ち着かなかった。理由は明白だ。──情報が、足りない。

「……なんか、変じゃないか?」

ぽつりと、誰かが口にした。

「報告書、見たか?」
「見た。というか、あれ“だけ”だろ?」
「“旧封印区域にて、魔力災害の兆候を確認。グラナート公爵家の部隊が、現地制圧を実施”──って。以上?」
「しかも、現地にいた構成員の名簿がやけにあっさりしてる。ゼノ様以外、ほぼ“未公表”になってた」

広間の片隅、休憩中の文官たちがひそひそと情報を交わし合う。その中で少しずつ見えてくる、事実の“空白”。

「旧封印区域にて、魔力災害の兆候を確認ってなってるけどさ、実際は違うよな?」
「おいおい、好奇心で突っつくんじゃないぞ」
「でもさ、最初は……」

若手の文官の言葉を別の誰かが遮る。それ以上は踏み込むな、という無言の牽制に若手はぐっと息をのむ。そんな空気を壊すように、別の声が上がる。

「それよりさ、こんな事案が起きたら、初動の時系列、現場構成員、魔術通信の履歴──逐一検証するだろ」
「それを誰も精査していない」
「いや、“できてない”ってのが正解かも」
「……第六は?」

その一言に、周囲の視線が集まる。
その第六の動きは鈍かった。そこに何かがあると感じるのは文官の本能。だが、別のことも感じている。──何かが、覆い隠されている。けれど、それを言葉にしてはならないのだと。

(……本当に、ゼノ様だけだったのか?)
(だとしたら、あの動きは──)

誰も口には出さない。出せば、引き返せない何かに触れてしまう。

「……けど、本当にこれでいいんですか?」

ぽつりと、若手の文官が漏らした言葉に、誰も返事をしなかった。ただ、その一言が残した波紋だけが、その場の空気を微かに震わせていた。

ただひとつ、確かなのは──この報告書の“沈黙”こそが、もっとも雄弁だということだった。“災害”という言葉では、何も語れないほどの“真実”がある。

 

◇◇◇

 

──そして、その全てを、王は知っていた。

王太子からの報告は、届いていた。娘の所在が判明し、グラナート公爵家が救出にあたったこと。その際、エドワルドが個人的に“ある少年”を動かしていたこと──報告書には名がない。命令書もない。だが、王は、理解していた。

王は前には出ない。出てはならない。王太子が責任をもって指揮を執り、無事に解決に導いた。ならば、それは“王命”として公式に認可されねばならない。

──だが、沈黙の背後で、王はただひとつ、私的に言葉を残していた。

「……せめて、せめて名だけでも、記してやれればよかったのだがな」

苦笑まじりの、ぼやきのような一言だったという。その声に、静かにうなずいた侍従の姿があったという話だけが、後に残された。一方で、別の場ではこんな言葉も残されている。

「グラナート公。自慢の息子、少しの間、預かる」

この言葉に、父は安堵と諦めの色を浮かべ、息子は喜色満面だったという。そして、褒章の控えにも、記録にも、ある少年の名前は記されていない。

だが、確かにそこには、“ひとつの想い”が存在していたのだ。

 

第4話 書いたこと、書かれなかったこと

王女の帰還が報せられてから、三日。けれど王宮の混乱は、まるで収束する気配がなかった。

「……で? どこの誰が、“転移痕跡なし”なんて書いたんです?」
「えっと、それ、術師団の報告をそのまま──」
「そのまま写すなよ! 誤字よりタチ悪いんだよ、“間違ってはいないけど正しくもない”報告って!」

朝から繰り広げられているのは、文官たちの修羅場。

王女が消えた部屋。侍女が手にした鏡。封鎖された王女宮。そして、何ひとつ明確な“転移痕”が残されていなかったこと。

記録する文官にしてみれば、これほど厄介なこともない。事件の核心に最も近いはずの第六課が、混沌の真っただ中にあった。

「こんなことなら、第七課に引き取ってもらえばよかった……」
「いや、それはそれで、全員術式解読班に引きずられてたと思いますよ?」

そんな嘆きすら聞こえる中──空気が変わった。扉が開く音が響く。誰もが手を止め、振り返る。そこに立っていたのは、一人の異端。

「……何やってんだ、お前ら」

ざわり、と空気が揺れた。第六課の中堅記録官でありエース、エグバート=グランヴィル。

「報告、整理されてんのか?」
「い、いちおう……主要証言と部屋の構造、配置図はまとめてありますが──」

差し出された羊皮紙を受け取り、彼はざっと目を通す。

「……聞き取り、甘いな。使った語句も曖昧すぎる。『見たような気がします』ってのは、見たのか、見てないのか、どっちだ?」
「そ、それは……」
「今から、再聴する。あの侍女、まだ拘留中だな?」
「はい。ですが……あの子、かなり消耗していて──」
「じゃあ記録だけ取る。喋れなくても書くことはできるだろう」

淡々と、けれど迷いなく告げられた言葉と一緒に、彼の足音が控室の奥へと続いていく。その背に、ひとりの若手がぽつりとつぶやいた。

「……あの人が動くってことは、また何か“見つける”気なんでしょうね」

誰からともなく、空咳がもれる。場に漂っていた重苦しい空気が、ほんの少しだけ動いた気がした。誰も口には出さないが、全員が感じている。“ここから何かが動き出す”と。

「……あの、あの人の“再聴”って、本当に本気で?」
「本気でしょうね。あの人、そういう人ですし」

そう答えたのは、隣席の若手書記官──フロイ。

まだ第六課に配属されて間もないが、書類処理の正確さと分析の切れ味で、静かに注目を集めつつある存在。

「でも、あの子……侍女のエルマさん、もう本当に憔悴してて……。目もうつろで、何を聞いても答えられないような……」
「だから“再聴”なんでしょう。言葉じゃなく、“記録”を取るって言ってましたし」

フロイの声色はあくまで淡々としていた。けれど、その指先には、ごくかすかに緊張の気配がある。その時、庶務課から応援に入っていた事務官がぽつりと問いかけた。

「……さっきのあの人って、どんな人なんです?」
「エグバートさんですか? ……正直、“何でこの人が文官なんだろう”って、最初は思いました」
「えっ……?」
「あの人、軍人の家系ですよ。現場には子供のころからいたって。報告書書くより、現場に出る方が向いてる人です」

小声で言ってから、フロイは手元の資料をそっとひっくり返した。エルマの初期供述が記された紙に、赤い印が複数入っている。

「転移痕なし、魔術師団の調査完了──。でも、“何もなかった”って報告ほど、エグバートさんは疑うんですよ」
「そんな……」
「なんといっても、あの人は全部“見てる”んですよ。現場の構造とか、人の癖とか。こっちが気づかないところまで」

不意に、別の書記官が割って入った。

「まさか、共犯がいるって?」
「さすがに断定はしてないでしょう。ただ、“知らずに加担してた可能性”くらいは、誰でもあるって話です」

フロイはそう言ってから、ゆっくりと視線を上げた。

「──でも、あの人は、そういう些細な見落としからでも“誰が、何を隠していたか”を嗅ぎつけるから、怖いんです」

その言葉に、周囲の空気がほんの少しだけ引き締まった。誰が仕掛け、誰が関与し、誰が何を知らずに受け取ったのか──。

王宮では、その違いが後になって重く問われることもある。次の瞬間。控室の扉が、音もなく開いた。

「──おい、新人。……これ、照合チェック。今までの調書との違いがないか確認しとけ」

言いながら放られた二枚の資料。そこにはたどたどしい筆跡で事件の経過が綴られていた。

「……これ、侍女の証言ですか?」
「そうだ。“持たされた”って話は本当かもしれねぇ。ただ、それだけじゃないだろうな」
「暗示、でしょうか……?」
「じゃないな。暗示であそこまで動かせるはずがない。もっと、深いところだ」
「……って、いうことは……」
「お前が感じてる通りだよ。まったく、なにも知らないガキに何をさせるんだか」

エグバートは、窓の外へちらと目をやった。夕暮れに染まりかけた王都が、塔の先に伸びている。

「エルマの再聴、お前がまとめとけ。今日中に下書き、明朝には提出な」

そう言いつつ、エグバートは上着を無造作に肩にかける。その様子に、フロイのいぶかしむ声が重なっていた。

「……了解、です。先輩は……?」
「俺は少し、“選定側”の話を聞いてくる。あの子が王女付きになった経緯、まだ誰も明言してねぇだろ?」
「でも、任命権なんて、限られてますよね……?」
「ああ。“限られてる”からこそ、狭い。だから──辿れる」

フロイは、ごく小さく息を呑んだ。その口調は、冗談まじりの普段の声ではなかった。冷たく、静かで、そしてどこかに怒りがにじんでいる。

「……先輩。“まさか”とは思いますが」
「“まさか”が起きるのが宮廷だ。だから俺たちがいる」

そう言って、エグバートは手袋をはめ直す。文官にしてはごつい指。いくつかの古傷が、過去を語っていた。

「任せたぞ、フロイ」
「はい。……あの、無茶は、なさらないでください」
「無茶しなかったら、誰がやるんだよ」

振り返りもせず、ひらりと手を振って──エグバートは部屋を出て行った。
扉が静かに閉まるのと、フロイが大きく息を吐くのは同時。

文官という道を選んだとき、こんな修羅場に立たされるとは思っていなかった。一族が進んできた道を歩いているはずだった。──けれど今、自分の足元に、確かに“選択”がある。

追うのか、避けるのか。そして、気づいてしまう。選ばされてなどいない。もうとっくに、自分は選んでいたのだ。しばらくして、フロイが深く息を吐く。

(……まったく、とんでもない人の下についたもんだ)

フロイは苦笑しながら机へ向き直った。
未完成の報告書。山積みの証言。整理しきれていない違和感。やるべきことは、まだいくらでもある。窓の外では夕陽が王都を赤く染めていた。

エグバートは外へ出た。ならば、自分は内側を固める。それが今の役目だ。

「……さて」

小さく呟いて、記録用紙を引き寄せる。追いつけるとは思わない。けれど、置いていかれるつもりもなかった。

フロイは新しい紙を取り出し、静かにペンを走らせた。

 

第5話 静けさの向こうに

「……“お戻りに”?」

まだ薄暗い朝、記録課の片隅で、新人文官フロイライン・リースフェルト──通称フロイ──は、手元の布告文を見つめたまま、小さく呟いた。その整った字面は、冷ややかにこう記している。

──王女殿下、医務棟へ御搬送。身体状態、安定。

確かに、“お戻りになった”のだろう。だが──それ以外が、まったく書かれていない。

「……ずいぶんと端折ってますね」

隣席の中堅文官が、書類を束ねながら小さく唸った。

「医務棟の診断記録にも異常は見られない。“外傷もなく、魔力反応も安定”──まるで、何もなかったかのようだ」
「でもこれでは……どうやってお戻りになったのか、何も……」
「書くな、ってことさ。ほれ、これはそっちの棚だな」

彼が差し出す書類をフロイが受け取ったその時。頭上から低い声が落ちてくる。

「──指揮を執った者の名、確認したか?」

はっとして顔を上げると、そこにはエグバート・グランヴィル。書類束を片手に、相変わらず無愛想な顔でこちらを見下ろしている。

「……エグバートさん」
「まだ席を温めて二か月の新人にしては、目のつけどころがいい。……見てろ」

エグバートはフロイの手元から布告文を一枚抜き取り、その端を指先で叩いた。

「“名代として出陣を承けたるは、ゼノ・グラナート”。──坊ちゃん、やったな」

「……学生、ですよね?」

「ああ。“王立学園所属”の肩書きのまま、グラナート公の名代。現地指揮権まで持たされた。“家の後押し”があったとはいえ──あれは、完全に“王女殿下のために”押し通したな」

フロイは言葉を失う。エグバートはさらに別の報告書を広げる。

「で、こっちが褒章関連。“王女殿下救出の功”として感状と卒業後の近衛推薦。……まあ、このへんまでは順当だが──」

布告の裏面を軽く叩き、皮肉めいた笑みを浮かべる。机の上の書類が、少し風に揺れた。

「問題はこれだろうな……“王女宮周辺護衛への帯同許可”。……王命の名の下っていうのが始末が悪い」
「な、なんで王女宮周辺護衛への帯同許可が?」

思わずフロイの声が裏返る。各宮に護衛が配置されるのは当然。だが、王女宮という場所であり得るのか?
たしか、兄である王太子に対してでさえ『立場をお考え下さい』と儀礼課がやんわりと釘を刺したはず。近衛ですら常駐できる者は限られる。まして学生の身分で──

「しるか。まあ、功績と家柄ってとこだろうな。なんたって、功績ってのは便利でな。一度積み上げりゃ、大抵の前例は踏み潰せる」

エグバートはそう言い残して、報告書を手に踵を返した。
フロイは、呆然とエグバートの背中を見送った。

──大抵の前例は踏み潰せる?

宮廷という組織をある程度は知っているフロイ。とはいえ、エグバートの言葉の真意は、完全には理解できない。だが、報告書の片隅に残された走り書きのようなメモ──
「出陣前、衣服の追加調整依頼あり」「屋外行軍装に加え、式典対応の礼装も同時発注」
──そこから透けて見える執念のようなものは、ひしひしと伝わってくる。

(……本気だったんだ、あの人)

ふと、フロイは思い出す。王女殿下誘拐直後、緊急発令の報を聞いた時、王宮全体に走った凍りつくような空気。口には出されなかったが、誰もが考えていた。

──最悪の事態が、起きたのではないかと。

それが、わずか数日で、“無事発見”という報に変わったのだ。奇跡と呼んで差し支えない展開だった。

「……でも、それでいいのかな」

フロイはぽつりと漏らす。書面は整い、記録は揃い、すべてが予定通りに“処理”されていく。だが──そこに残るはずの「何か」が、どこにも見当たらない。

喜びも、安堵も、怒りも、不安も。人の心が、どこにも記されていない。だが、フロイは思ってしまったのだ。王女殿下は、あの夜──何を見て、何を感じたのだろうと。

「おい、新人。手ぇ止まってるぞ」

鋭い声に、フロイはびくりと背筋を伸ばす。顔を上げれば、庶務課の別室から現れた中堅の書記官が、書類束を片手に立っていた。

「新しい布告文だ。“王女殿下の行動予定、当面非公開”」
「……また、ですか」
「また、だ。関連部局の関係者名簿すら、当面“閲覧不可”だとよ。まるで──」

言葉を途中で飲み込むようにした書記官は、ただ一枚の布告を机に置いて去っていった。風が、窓の隙間から入り込み、山積みの紙の端をかすかに揺らした。

「……まったく、なんなんだよ」

ぽつりと呟いたのは、斜め後ろの席にいた年長の書記官だった。昨日の夜から報告書と取っ組み合っていた彼は、昼過ぎには退出しているはず。その彼が、まだ同じことを続けていること自体、事の異常性を物語っていた。

「誘拐事件だぞ? 王女殿下の、だ。もっと混乱して、もっと荒れるはずだろうが」

言葉は粗かったが、それが本音だった。

「それを、まるで予定調和みたいに、全部“処理”しやがって」
「……処理、ですか?」
「そうさ。最初から最後まで、“筋書き通り”ってやつだ。軍を動かし、王命を下し、褒章を与えて、記録を整えて──そりゃ見事だよ、完璧だ。けどな……」

彼は書類の隅を、乱暴に指先で叩いた。

「“人間”が見えねぇ。こんな報告、機械でも書ける」

フロイは、返す言葉を持たなかった。だが、心の奥では──ほんの少しだけ、同じ違和感が渦巻いていた。

(あれだけのことがあって、こんなに静かで、整っていて……)

あの時、王宮中を覆っていた張りつめた緊張と焦燥感は、どこへ消えたのか。いつの間にか、すべてが「元通り」の顔をしている。ただ一つ、変わったものがあるとすれば──

――ゼノ・グラナート。

その名が、王宮の中でほんのわずかに、重みを増していた。

 

◇◇◇

 

翌朝、王城の庭には白い花が揺れていた。その中心を、制服姿の少年が静かに歩く。まだ陽は高くない。けれど、彼の姿を見かけた者は、皆そっと道を譲った。

表立っては称賛されることはない。だが、王女宮に詰めている人間は何があったのかを知っている。だからこそ、陰では彼のことを王女救出の“英雄”と口にする。──もっとも、そう称されている相手は、ただ困惑している。彼は与えられた辞令を淡々と受け入れ、用意された制服に袖を通し、出仕の時刻に王女宮へ現れる。それだけ。

「……目立ちたくてやってるわけじゃないんですよね、あれは」

窓越しにその姿を見つけながら、フロイが呟いた。

「ただ、ああするしかないって顔をしてる」
「“そうさせられてる”ってのが、正しいかもな」

隣の席から、エグバートが短く返す。机の上には今朝届いた最新の出仕記録と、関連する指令文。どれも手際よく整っている。

「俺たちは記録するだけだ。“事実”を書き、“真実”は読み取るしかない」

彼は書類の一枚を抜き、フロイに渡した。

それは、王女宮付き護衛の“帯同記録”──名義は、ゼノ・グラナート。初出仕日:本日。出仕先:王女宮周辺。所属:臨時。

「名前だけで全部通してる。“特例措置”だ。辞令も印も通ってる。異例づくめだが、止められる奴はいない」
「……じゃあ、もうこのまま?」
「さあな。けど一つだけ確かなのは──」

エグバートは窓の外を見やった。そこには、何も語らず、ただ静かに王女宮へ向かっていく少年の後ろ姿があった。

「もう、“始まってる”ってことだよ」

事件の報告書は、封じられた。だが、彼の足取りだけは、確かに王城に刻まれていた。

 

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