第4章 呼ばれた名、届かぬ声
第1話 静かなる帰還
夏の気配が濃くなりはじめた王宮に、一つの報せが届いたのは、正午を少し過ぎたころだった。
──王太子殿下の命により、新任の文官補佐、セイル・クレイドを王女宮付きとする。
淡々と告げられたそれは、庶務課を、刹那にして凍らせるには充分だった。
「……は?」
最初に声を発したのは、庶務課の若手補佐官だったという。
無理もない。今まで見たこともない名前の文官補佐。配属先が王女宮。これで驚かない方がどうかしている。
だが、そんな庶務課の補佐官よりも動揺を覚えているのが──
ゼノ・グラナート。
“王女の護衛”であり、今や王宮内で最も“王女アリシア”に近いと噂されている存在。
その彼の眉が、わずかに動く。
ほんの僅か、けれど、それは明らかな“動揺”だった。
(……セイル、だと?)
その名を聞いた瞬間、胸の奥に沈んでいた記憶が、不意に浮かび上がった。忘れたことなど、一度もなかったはずなのに。
ありえない。
いや、ありえる。
だが、ここで?
このタイミングで、王宮に?
「……失礼。少々、外します」
控えの文官にそう言い残し、ゼノは廊下に出た。
涼しげな顔を装ったつもりだったが、手のひらにはじわりと汗が滲んでいた。
(まさか、本当に……)
三年前の記憶が蘇る。
王女誘拐という未曽有の事件の夜。暗い地下室、伸ばされた小さな手、その先にいた“彼”の姿。
王太子殿下が動けなかった時、代わりに選んだ一人の少年。
──セイル・クレイド。
庶民の出でありながら、王立学園首席合格。その名は、才気と信念の証として知られていた。
だが、あの時の事件は表向きは「禁術災害対処」で処理された。つまり、彼のことはどこにも記録されていなかったのだ。それなのに、今になって王宮へ現れた。それも王太子であるエドワルドからの指示として。
(殿下との間で……何かあった、というのか)
その瞬間、ゼノの中で何かが軋んだ。焦燥、苛立ち、そして……薄い、痛み。
あの日、王女を救ったのは自分だった。だが、最初にその手が伸ばされたのは――。
しかし、時間は容赦なく進む。
午後、王女宮の表門。静かに現れたのは、一人の青年だった。
控えめな外套を羽織り、帽子を片手に持ったその姿は、王宮の華やかさとは程遠い。だが──その眼差しだけは違った。
まっすぐに、門の向こうを見据えている。どこまでも真っ直ぐで、揺るがない光。
「……セイル・クレイドです。王太子殿下より命を受け、補佐官として参りました」
彼は、そう言った。まるで“今この瞬間が始まりだ”とでも言うように。
◇◇◇
午後の陽射しが、柔らかく室内に差し込んでいた。
ティーカップの縁に光が映えて、銀のスプーンがわずかに揺れる。
「……セイル」
控えていた女官が、手元の書簡を確認しながら丁寧に説明を続ける。
「はい。新任の文官補佐、セイル=クレイド殿。王太子殿下の命により、王女宮付きとして本日着任とのことです」
「そんなお名前、これまで聞いたことありませんわ」
「詳細は存じませんが、急な辞令だったようでございます」
「そんなに急に決まるものなの? でも……お兄さまがお決めになったのなら、そうなのかしらね」
アリシアは頷きつつも、妙な引っかかりを覚えていた。
──セイル。
その名前に、どこか覚えのようなものがあった。だが、それが何なのかといわれても説明できない。どこか不思議な感じだけが残っていた。
そして──
控えの間へと移動する。今日の予定と、簡単な文書確認だけ。その間、ゼノ・グラナートは、いつもの位置にいた。姿勢は変わらず、沈黙も保たれているはずだったのに──。
(……あれ?)
ほんの一瞬、彼の視線が揺れた気がした。気のせいかと思いかけたが、胸の奥にひっかかる。
「……ゼノ様?」
アリシアが呼びかけると、ゼノは即座に一礼を返した。
「お変わりありませんか、姫様」
「ええ……でも、ゼノ様、いつもと違うように思って」
「そう見えましたか。……申し訳ありません。少々、考えごとをしておりました」
「“セイル”という方のことで、ですの?」
「いいえ。姫様にご心配をおかけするようなことではありません」
その言葉は、いつも通りの誠実な響きを持っていた。けれど、その奥にあるものを──アリシアは、なぜか感じ取ってしまった。
言葉にならない、わずかな“棘”のような気配。
「なんだか……いつもとは違うみたいですわね」
アリシアは静かにそう呟いて、窓の外に目を向けた。
外では風が枝を揺らし、淡い陽の光が木々の影を落としていた。
◇◇◇
その青年は、王女宮の門前に立っていた。陽射しに晒された石畳の上で、深く頭を下げた姿は、どこまでも礼節に満ちている。
帽子を片手に持ち、襟元をきちんと留めたその立ち姿。だが、ゼノは最初の一瞥で理解していた。
──この男は、只者ではない。
「……ゼノ・グラナートです。アリシア殿下付きの護衛を務めております」
「……セイル・クレイドです。王太子殿下より命を受け、補佐官として参りました」
セイル・クレイド。
わずか数語の挨拶の背後に、“本物の誠意”と“覚悟”が透けて見えた。
「王女殿下にご挨拶を……と、思ったのですが」
「侍女が案内いたします。私の方から通しておきましょう」
平坦な声を保ったまま、ゼノは少しだけ視線を下ろした。視線を落とした瞬間、喉奥に何かが詰まった。
セイルがふっと頭を下げる。柔らかく、けれど芯のある動作だった。その仕草が、ふいに胸の奥をざわつかせた。
その礼儀が、長く仕込まれた“型”ではなく、自ら選び取った“信条”であることが一目でわかる。
そして何より──この者の“核”には、揺るがぬものがある。
王太子殿下の名を背負って来た。それだけでも十分な“異例”だ。だが問題は、その名ではなく──彼の“目”だった。まっすぐで、曇りなく、それでいて、見返したくなるような強さを持っている。
ゼノは、少しだけ息を吸った。
こういう目を、知っている。目的のためならば、どれほど長くても待てる者の目。そして、一度決めたことを決して曲げない者の目。
(……間違いない)
あの夜にかけられた“ありがとう”が、彼の中でまだ燃えている。あの一瞬が、三年という時間を越えて、彼をこの場に立たせた。
ゼノは、どこまでも冷静に装ったまま、背筋を正す。
護衛の顔を保ち続ける。それが今、自分に許された唯一の手段だった。
「……ようこそ、お越しくださいました」
わずかに口角を上げる。それは微笑と呼ぶにはあまりに固く、威圧と呼ぶには静かすぎた。
セイルは、また一つ、礼を重ねた。そこへ侍女が静かに近寄ってくる。
「お待たせいたしました。王女殿下がお会いするとのことでございます。宮の中の説明もございますので、こちらへどうぞ」
そのまま、侍女に伴われて門をくぐっていく瞬間。すれ違いざま、ほんのわずかにゼノの視線とセイルの目が交差する。
一瞬の、無言の対峙。
──火は、既に灯っていた。けれど、それに気づく者は、まだ誰もいない。
第2話 名を呼ばれた者
その朝の控えの間には、ふたつの影があった。
ひとつは、壁際に控える青年。背筋を正し、気配を薄めるように、ただ静かに立つ。王女の動きを意識しつつも、決して目を向けない。
もうひとつは、書簡を手に立つ青年。手慣れた所作で、王女に何かを説明している。まだ若いが、落ち着いた声音はよく通り、聞く者の不安を和らげる。
「んー……わたくし、よくわからないのだけれど。これって、難しいお話?」
アリシアは眉を寄せて問いかけた。机の端に身を乗り出し、小首をかしげる様は、まさに年相応の少女だった。
「難しい内容は上の方にまとめてありますが、殿下には一番下の確認欄だけ、ご覧いただければ大丈夫です。……形式上のことでして」
「なら、安心ね。セイル、ちゃんと見ておいてね」
その声が、思ったよりも自然に響いた。
ゼノ=グラナートは目を伏せ、表情を崩さぬまま、その名が呼ばれた瞬間を静かに噛みしめた。
セイル=クレイド。王太子の裁量で採用された特例の文官補佐。庶民出身ではあるが、今では日々の学習や執務訓練にまで同行するようになった。
「午後は、王太子殿下のところへご挨拶ですよね。僕が付き添いますこと、承認をお願いいたします」
「うん。ありがとう、セイル」
また、名が呼ばれた。ごく自然に、ためらいもなく。アリシアはセイルのことを名で呼ぶ。その声音には、まっすぐな信頼が滲んでいた。
「グラナート様、こちらに今朝の予定表が届いております」
侍女が控えめに差し出してくる紙片を受け取り、ゼノは小さく会釈する。書面に目を落としながらも、思考の一部は、先ほどのやり取りに引き寄せられたままだった。
セイルとアリシア。そこにあるのは、あくまで節度ある距離感だ。文官と王女。けれど、彼女の言葉や表情には、どこか“あたたかさ”が滲んでいた。
(……俺は)
なぜ”ゼノ”とは呼ばれないのか。
彼女が自分のことを、セイルに対するように気軽に呼ばないことは、気が付いていた。だが、それを当然だという思いもある。
アリシアが王女としての教育を受けている以上、貴族家との距離感は自然に身につく。これは互いに傷つかないための礼儀であり遠慮ともとれる部分。もっとも、王族としての無意識の“線引き”も含まれているか。
そのことを分かっていたとしても、名だけで呼んでもらえない。
──そのことが、これほどまでに胸を灼くものだったとは思ってもいなかった。
◇◇◇
午後の陽が斜めに差し込む執務室で、王太子エドワルドは妹を迎えていた。
「アリシア、こっちへ。今日は久しぶりに、ゆっくり話そうと思って」
「お兄さまは忙しいと思ってたから、ちょっとビックリしたの。でも、嬉しい」
ゼノは、室内の壁際に控えながら、静かにそのやり取りを聞いていた。護衛としての立場に徹して、常に一歩下がり、視線を泳がせることなく王女の後ろに位置する。それが当然の務め。誰に命じられるまでもない、自らの選択だ。
だが──
「セイル、おまえも座っていい。今日の報告、直接聞いておきたい」
その一言に、静かな水面が揺れたような気がした。
「……はっ。では、失礼いたします」
文官補佐の青年が軽く礼をして、アリシアの隣に控えめに腰を下ろす。この場において、同席を許させることはまず考えられない。だが、エドワルドが自ら声をかけたのなら、それを否とする理由もない。
「ねえ、セイル。あの、朝の紙……どうなったの?」
「はい。あれから、すぐに関係先に回しました。王太子殿下のご確認が入れば、正式になります」
「そっか……よかった。じゃあ、お兄さま。よろしくお願いします」
アリシアの声に、エドワルドは彼女の髪をそっとなでる。妹が頑張っていることを誇らしく思っているのは間違いなかった。そして、セイルがその場にいることが当然のように見える。そのことがゼノの苛立ちを深くする。
信頼。親しみ。これは、今の彼からは決して踏み込めない距離感。
自分が護衛という役目に徹する限り、王女から名を呼ばれることなど、あり得ない。呼ばれないのではなく、“呼ばせてはいけない”。そうすることで、すべての均衡が保たれる。
……それなのに。
(なぜ、こうも落ち着かない)
名を呼ばれることが、こんなにも大きな意味を持つとは。それを教えられたのが、今朝のやり取りだった。
王女はセイルの名を呼ぶ。ためらいもなく、戸惑いもなく──まるで当然のように。
この部屋の主は、王太子エドワルド。アリシアの兄であり、そしてこの王国の未来を担う者。
そのすぐ隣に座るのは、妹である王女。そこまではいい。だが、その少女に“名を呼ばれている”青年がいる。
──セイル・クレイド。
立場は文官補佐。だが、今やその枠には収まりきらない存在となりつつある。
王女の日常に存在し、学習や執務の補助までを担う。政務に関する書類を共有し、兄と妹の場に同席が許される。
(……違うのだ)
ゼノは、心の奥で静かに言葉を噛み締めていた。
自分は、あの位置には立てない。そばにいることは許されても、踏み込むことはできない。
護衛という立場に徹する限り、王女から名を呼ばれることは──ない。それが正しい距離。それが、選んだ道。
けれど。
心のどこかで、微かな焦燥が燻っていた。
名を呼ばれたいわけではない。ただ、それを当然のように許される誰かの存在が、ここまで胸を灼くとは。
──変化の兆し、なのだろうか。
アリシアが13歳を迎えてからのこの数カ月。
公務の初歩に触れ、文官との関わりが増え、周囲とのやり取りも大人びてきた。それは、今までの少女ではない、という現実も突きつけてくる。
「王太子殿下、そろそろお時間です」
静かに入ってきた側近であるリュシアンの声に、エドワルドは静かに頷く。
「もう、そんな時間なんだね。アリシア、あまり話せなくて悪かったね」
「……う、うん。でも、また一緒にお茶をしてくれる?」
「もちろん。あ、セイル。相談したいことがあるから残ってくれるね」
エドワルドの声にセイルは黙って頭を下げるだけ。
「わかったわ。……じゃあ、セイル。あとでまたね」
軽やかにそう告げて、アリシアは立ち上がった。その背中を守るようにゼノが位置を取り、扉の方へと歩き出す。
その一連の動きは、三年間の蓄積からなるもの。もはや無意識に近い、護衛としての所作。
だが、その日初めて感じた“何か”が、ほんの少しだけ、歩調を乱した。
アリシアを中心に、隣に兄と文官。自分はその外側にいたことが脳裏に浮かんでくる。
どうして、自分は入ることができなかった。いや、入るというだけではない。それが許されもしなかった。このことが現実として押し寄せてくる。
だからこそ、あそこは、自分が触れてはならない世界なのだと。
あらためて、そう思い知らされる光景だった。
(……ならば)
この距離を、保ち続けるしかない。
けれど、それが本当に「正しい」と言いきれるのか──
ゼノ自身にも、もう、わからなくなりかけていた。
第3話 その距離、剣より近く
初夏の陽光が、城都の街路を明るく照らしていた。
王女アリシアの慰問行列は、緩やかな速度で王都南部の職人街へと向かっている。
軒を連ねる織物屋や染め物工房の前には、飾り立てられた天幕が張られ、住民たちが沿道に整列していた。子どもたちは花を手にし、大人たちは帽子を脱ぎ、王女の馬車が通るたびに深々と頭を下げる。
「左側、異常なし。……先行部隊、予定通りの進行です」
馬上からそう報告するのは、ゼノ・グラナート。
整えられた姿勢のまま、視線だけを左右に巡らせながら、異変の兆候を探っていた。
けれど、彼の目が自然と捉えてしまうのは──
(……気にすることはないはずだというのに)
視線の先。王女の馬車には今日も文官補佐が同乗している。
セイル・クレイド。文官補佐──とは名ばかりの、今や実質的な「王女付き」のそば役。
王太子エドワルドの私的な裁量で選ばれたと聞いている。
出自は庶民。王立学園の首席入学者。──確かに才覚も人柄もあるのだろう。
(あれが、許される距離なのか)
ゼノから見た彼の位置は“近すぎた”。同じ馬車の中には侍女もいるのだから、二人きりというわけではない。でも、言葉を交わすには絶好の位置。なによりも、すぐに手が届く距離。
(このままで……いいのか)
そう思ってしまった瞬間、ゼノは自らの内に生まれた焦りに、ひどく動揺していた。
護衛の役目とは、彼女の安全を守ること。それ以上を望むのは、越権。分かっては、いる。それでも──
あの場所に、いたかった。
隣で、笑ってほしかった。
(……あいつが何者だろうと、関係ない。だが……)
意識の奥底で、何かが揺れる。
──気づけば、自分の視線がそれを追っている。
彼女の一挙手一投足を。その傍らに立つ男の所作を。近すぎる距離に対して、アリシアが何一つ嫌悪を示さないという事実を。
(それは、信頼か? 好意か?)
馬上にある身でなければ、額を押さえていただろう。考えすぎだと、自分に言い聞かせても、思考は止まらなかった。
「グラナート卿、中央の広場までは、あと十分ほどかと」
「……ああ。警戒はそのままに」
「……何か、気になりますか?」
「いや──」
答えながらも、目線はつい、王女の馬車へと向かってしまう。それを振り払うように同行する近衛の声に軽く頷き、視線を先へと向けた。
──だが、その意識の半分は、依然として“隣”の距離に囚われていた。
◇◇◇
先に馬車から降り、周囲に目を配る。同乗していた侍女の手を借りて馬車から降りたアリシアの半歩後ろに立つ。そんな青年の姿を、遠くからゼノは見ていた。その姿はあまりにも自然で、違和感を覚える余地すらない。少し前まで、その場所にいたのは自分だったはずなのに。
「……あれが、“文官補佐”か」
「書類仕事だけならともかく、視察にも随行するとは。ずいぶん便利な肩書きですな」
冗談めかしたその口調にゼノは笑わなかった。むしろ、その“便利な”立場が、自分にとっていかに手強いかを痛感していたからだ。
あれは、ただの文官ではない。王太子の裁量で、王女付きに準ずる権限を与えられた人物。
彼が侍女を通じて、何事かをアリシアへと告げる。彼女は微笑みながら、セイルに視線を返す。その瞬間、彼女の表情がやわらかくほどけたのが、ここからでも分かった。
(──ああ、もう)
視線を伏せると、足元には白い小花が咲いている。慰問先の孤児院。子どもたちのために王女が自ら足を運び、物資や薬を届ける姿は美しく、そして理想的な“姫”の在り方だった。だがその傍らにいるのは、自分ではない。
「グラナート卿。移動の指示がありました」
近衛からの報告に頷きながら、彼は小さく息を吐いた。護衛騎士として動くのは、もう何度目だろう。けれど、王女との距離は──遠くなる一方だ。
(──このままで、いいのか?)
誰にも聞かせられない問いが、胸の奥を掠めていく。そんなことを考えるようになったのは、いつからだったか。
子どもたちの輪に加わり、アリシアが笑っている。その傍に控える、文官補佐の青年。慎ましく、丁寧で、だが絶妙に親しい距離感。
──自分には、もう届かない位置かもしれない。
その想いが、心の奥で重く沈んだ。
けれどそのとき、不意に視線が交わった。
遠くにいたはずのアリシアが、ふとこちらを見やったのだ。
驚いたように、けれどすぐに穏やかな笑みを浮かべて、軽く手を振る。
それはまるで、ずっとそこにいたことを忘れていなかったと告げるような、やさしい仕草だった。
──そうだ、自分はまだ、見捨てられたわけではない。
そう思いたかった。
◇◇◇
護衛任務を終え、王女宮へ戻った夕暮れ時。すでに日が傾き始めた前庭で、ゼノは一人、無言のまま馬の手綱を引いていた。鉄蹄の音が石畳に淡く響く。頭上では茜色が広がり、影が長く伸びていた。
今日一日の慰問も、決して楽な行程ではなかった。何より、群衆の中を進むには“話しかけられやすい”立場であることが必須で、瞬時の判断と対応が求められる。
――だが、セイル・クレイドは、何の苦もない顔で、やり遂げていた。
「王女殿下、こちらへ」
「お気をつけて。段差があります」
「……失礼、代わりに受け取ります」
どれもこれも、自然で、的確で、隙がない。
剣ではなく、言葉と所作で守る。ああいう振る舞いこそが、“そば付き”なのだ。……そう思い知らされた。
(あれで……19歳、か)
そう自分に言い聞かせても、心のざわめきは収まらなかった。
悔しい、というのとは少し違う。だが、何かが胸の奥にある。
馬をつなぎ、厩舎を出たところで、ゼノはふと足を止めた。ほんの数歩、視線を先に向ければ、見知った姿があった。アリシアのもとを下がった後なのだろう。セイルは軽装のまま、帳簿の束を抱えて歩いている。
「……用件か?」
「護衛任務、お疲れ様です。……いえ、少し確認したいことがあって」
「確認したいこと?」
「はい。……明後日の予定で、礼拝堂の視察があります。同行者の割り振りについて、調整が必要かと」
「……調整は任せる。だが、視察当日は前に出る。必要があれば、そう伝えておけ」
即答したつもりだったのに、自分でもわかるほど声音に棘が混じった。
言葉にすれば、それは醜い嫉妬でしかなかった。
護衛として、あるまじき感情だ。
だが。
(このままで、いいのか……?)
その問いが、頭から離れない。
自分は何を選ぶべきなのか。
護衛であることに甘えて、ただそばにいるだけで満足していていいのか。
──否。
それだけでは、きっと、届かない。
「……調整はお前の仕事だ。俺は……前に、出る。それだけだ」
そう告げて、ゼノは背を向けた。
背後でセイルが何かを言いかけた気配がしたが、聞き返すことなく、そのまま歩き出す。
夕闇が濃くなっていく。石畳に映る影が、ゆっくりと伸びていた。
その足取りは、まだ迷いを孕みつつも──わずかに、けれど確かに前へと向かっていた。
(……このままでは、きっと、届かない)
けれど、それを超える術も、まだ──見えていない。
第4話 誰のための場所か
──これで、いいのか。
その問いかけに、明確な答えはなかった。
静かな午後の時間。王女宮に詰める近衛の使用する一部屋をゼノは自分の私室として使っている。
机は、簡素ながら堅牢。窓からは庭園が見え、控えの侍女たちの姿がちらほらと映る。柔らかな陽が差し、風がカーテンを揺らしていた。
けれど、ゼノの胸の奥には、穏やかさとは裏腹に、どこか落ち着かない焦りのようなものが渦巻いていた。
「……」
ゼノは立ち上がり、机の上に置かれた封筒にゆっくりと手を伸ばす。その動作すら、どこか慎重すぎるほどだった。
手に取った封筒の名前を確認する。書かれているのは、実家。グラナート公爵家当主──父、エルネスト・グラナート。封蝋も間違いなく父のもの。であれば、何を言いたいのかは分かっている。
「先日、断りを入れた見合いの件だろうな……」
父の言い分も分かっている。だが、彼自身にとっても譲れないものがある。とはいえ、もはや“護衛”という立場に甘えるには、遅すぎるのかもしれない。
護衛であれば、ただ守っていればよかった。理屈ではなく、剣と身体で。王命に従い、王女のそばに仕える。そういう職務の名を借りて、彼女の傍にいられた。だが今、それが緩やかに“終わろうとしている”という気配が、ある。
セイルという名の青年が現れた時から。いや──それ以前から、何かは、少しずつ変わっていた。
扉の外で、控えの侍女が誰かと低く言葉を交わしている気配がする。
そして、間もなく──軽くノックの音。
「……どうぞ」
「失礼する」
現れたのは、ロドルフォ・カザル。グラナート家家宰にして、ゼノの育ての親ともいえる男だった。
白髪混じりの髪を丁寧に整えた老文官は、片手に文書の束を持ち、紅茶の盆を持つ侍従を従えている。もっとも、侍従にはさっさと下がるように告げると、書類と盆を無言のまま、机の脇に置いた。
「ひと息、入れては?……“動く”頃合いだろうと思ってね」
「……頃合い、とは?」
問うと、ロドルフォはわずかに目を細めた。
「“己の名をどう使うか”を、真剣に考えねばならぬ年齢ということだ。若も、もう二十を過ぎた」
ゼノは、視線を茶碗に落とす。
この男は、いつもそうだった。言葉は多くなく、詮索もしない。けれど、その静かな視線は、彼の心の裡を鋭く見透かすように届く。
「……まだ、答えは出ていません。けれど──選ばねばならない時が、来ているのは分かります」
「なるほど」
ロドルフォは静かに頷いた。
「若は、よく耐えた。だが、私には見えている。そろそろ限界だ、と」
「……」
「率直に申し上げましょうか。若。あなた様が今、この場所にいるのは、“誰のため”でしょうか?」
一瞬、答えに詰まった。
「……俺は」
「お待ちください。まず私が見ている事実をお話ししましょう」
語気が強まったわけではない。しかし、その声音には長年家を見守ってきた男の厳しさがあった。
「若は、この数年で多くを積み上げられました。功績も、信頼も──そして、王女殿下との“並び”という、微妙にして決定的な立ち位置も。しかし、すべてを“護衛”という名のもとに積み上げてきた」
「……それが、悪いと?」
「いえ。ただ、それは“他人が決めた役目”である、ということです。あなた様ご自身が“何を為すか”を選んだ結果ではない。若、あなたはまだ、一度も“貴族としての矜持”で道を選ばれてはいない」
言葉のひとつひとつが、骨に染み入るようだった。
「……それを、選べと?」
「そうですな」
ロドルフォは持ってきた文書の束から1枚を抜き取っている。それは、彼に届いた封書とはまた別の父からの書状だった。
「父上は、何を……」
「一族の長となる“覚悟”が、まだ見えないと仰っています」
ロドルフォは書状をゼノの手へと渡す。
「若。“王女殿下の護衛”などという立場は、何の保証にもならないのです。“貴族”とは、その責任と対価を理解した上で、血と名を賭けて行動するもの。あなた様も、そろそろ剣を置き、“選ばれる覚悟”をお持ちいただかねばなりません」
静かな口調。だが、それは“通達”だった。
「……分かってる」
ゼノは小さく息を吐く。
「護衛でいる限り、選ばれることはない。だが、貴族として並べば、あの人を“選ぶ”ことになる。それが何を意味するのかも……」
「構いません。若が“王女殿下の傍に在りたい”と願われるなら、そのための代償は──一族が引き受けましょう」
「……代償、ね」
ゼノは、ロドルフォの差し出した書簡に手を伸ばす。
「……ロドルフォ」
「は」
「明日の昼、時間を取ってくれ。父上に返信を書きたい。俺自身の言葉で」
その声は、もう迷いを含んでいなかった。
◇◇◇
ロドルフォとの約束の時間が近い。
それがわかっているのに、思わず手が止まる。
“在るべき場所”が、誰のためのものなのかを、考えてしまった。
彼女のために在るのか。家のために在るのか。
あるいは、自分自身のために。
どれも否と切り捨てられず、けれど是とも言い切れず──書きかけた文を、ゼノはまた破り捨てた。
そのとき、扉が控えめに叩かれる。
「失礼します。グラナート様、カザル殿がお越しです」
「通してくれ」
すぐに入ってきたのは、いつも通りの家宰の姿。
「……手紙の返答が、まだのようですな」
ゼノが黙って頷くと、ロドルフォは部屋の隅に目をやった。そこには、破られた便箋の山。
「何通目です?」
「七通目だ」
「記録しておきます」
軽く冗談めかした口調に、ゼノは思わず息を吐いた。
「笑いたければ、笑ってくれ」
「いえ。むしろ安心しました」
「……?」
「悩むというのは、選択肢を意識し始めた証です」
ロドルフォはそう言って、卓上の便箋の山を一瞥した。
「私は、若が“王女の護衛”という立場を捨てぬのなら、グラナート家の嫡子としての器ではないと、見切っておりました。ですが──それ以外の道をみつけられたようですな」
「……戯れ言だ。俺は、ただ……」
「姫君の周囲は、まもなく様々な“色”で囲まれます。若が傍に在ることは、今や“例外”であり、かつ“特権”です。それを続けることが、本当に姫君のためなのか……若自身が、考えるべき時です」
「…………」
「ただ、“そこにいたい”だけでは、選ばれないのです」
その言葉に、ゼノの肩がわずかに震えた。
「……選ばれない、か」
ロドルフォは視線を落とし、手にした一枚の便箋をそっと卓に置いた。
「──家としての答えは、既に用意しております」
《覚悟を問う文言》が、堅い筆致で綴られていた。それは、“家の名”としての宣言。
だが、ゼノはまだ、それを手に取ることができなかった。ロドルフォが立ち上がる。
「──私は、常に若の味方です。ですが、“立場”を定めなければ、味方にもなりきれません。今夜中に、決めていただきたい」
「……ああ」
静かに頷いたゼノの背に、ロドルフォは一礼して去っていった。
残された室内。
破かれた便箋の山の中に、ゼノはふと視線を落とした。
(──俺は、どこに在るべきなのか)
まだ、答えは出ない。
けれど──
……俺は、本当に“立つ覚悟”があるのか。その問いが、破られた便箋の山よりも、はるかに重く感じられた。
第5話 届かない声
「ゼノ様、これにも署名がいりますの?」
思わず胸を突かれる。今の問いは──確かに、自分に向けられたものだった。
それだけで、なぜこんなにも胸が熱くなるのだろうか。
今日は異例ともいれる記録室への訪問。しかし、それも仕方がないものだったろう。
『記録室に保管されている書類に王女殿下の署名が必要になっております。ただ、少しばかり秘匿性の高い文書なので、できるならばお出ましいただきたい』
このような連絡があったからだった。そして、問題の書類はゼノから見てもたしかに秘匿性の高い内容。それらを一枚ずつ丁寧に手に取っているアリシア。彼女は侍女が差し出す筆を受け取ると、所定の欄にさらりと署名を記していた。
署名の合間にたまに向けられる視線。
──その先には、セイル・クレイドの姿があった。
若き補佐官は、相も変わらずの丁寧な口調で、提出資料の分類についてフロイと議論している最中だった。落ち着いた声音と、理路整然とした言葉運びだけが室内に響いている。
そんな時、アリシアの無邪気な声が記録室の中に響いていた。
「セイル、こっちの書類にもわたくしの署名がいるの?」
そう言って、王女は一枚の帳票を差し出した。その声音は、あまりにも自然で、あまりにも当たり前に、彼の名を呼ぶ。
「確認いたしますので、少々お待ちいただけますか──」
セイルはすぐに応じ、会話は数往復で完結した。事務的で、淡々としたやり取り。だが、傍から見ていたゼノには、それがむしろ親密にさえ思えた。
当たり前に言葉を交わし、当たり前に通じ合っている。
──そんなものを見せられて、胸が軋まないわけがない。
(……違う、と言えるか?)
心の中で、誰にともなく問う。
まだ始まりきっていない。そう思っていた。あの男は“王女付き”の補佐官であり、王太子の私的裁量で任命された臨時の側近。つまりは、ただの部外者。そう言い聞かせてきた。
だが──
あのときアリシアが、迷わず「ありがとう」と告げたのは誰だったか。
あの時の山荘の地下室。抱き上げた腕の中で告げられた声は、ゼノだけではなく、セイルにも向けられていた。
(……気づいていなかったわけじゃない。ずっと……)
気づかぬふりをしていた。彼女の視線が、名前が、声音が。少しずつ、けれど確実に“そちら”に向いていることに。
けれど、それはまだ……“焦り”で済むと思っていたのだ。
◇◇◇
書類の確認が進むにつれて、記録室の中も次第に落ち着きを取り戻していた。
侍女が控え、フロイとセイルが書類の突き合わせをしている。書記官らしい几帳面な調子で、「この書式は第五様式で統一されています」「ただ、備考欄の書き方に微差があるので……」などと低い声で説明が交わされていた。
「署名は、ここで最後ですわね?」
アリシアがフロイに問いかけ、侍女に手渡された書類を軽く持ち上げる。
「はい、王女殿下。こちらで最後となっております」
「よかった。あまり長居すると、邪魔になってしまいますものね」
そう言いながら、アリシアは笑みを浮かべた。
それは──まぎれもなく、あの時と同じ微笑みだった。
ゼノは言葉を飲み込んだ。
今、口を挟むことは許されないと、本能が告げている。
「リースフェルト文官、提出は本日中でしょうか?」
「ええ、夕刻までに政務棟へ回したいと思っています」
「では、その後に王女殿下からの一筆を添えて……」
「形式としては必要ありませんが、あれば尚よし、といったところですな」
「では、そのように手配いたします」
「助かります」
フロイとセイルの静かなやり取りも続いている。
それを見ていたアリシアが、セイルの方へと歩み寄る。
「……この文書は、来月の視察に関わるものですの?」
「はい。その予定で調整されております」
「そうなのね。いつも、ありがとう」
穏やかな調子でアリシアが告げる。それに対して、セイルはわずかに目を伏せた。
「もったいないお言葉です」
──この光景を、なんと呼ぶのか。ゼノには、それがわからなかった。
親密? 信頼?
ただの補佐官と主君の関係?
それとも──自分の居場所が、もう隣ではないという証明?
いつからだろう。彼女が、こちらを見ない時間が増えたのは。
いつからだろう。名前を呼ばれなくなったのは。
あの声が、自分に向けられることは、もうないのかもしれない。
「グラナート殿?」
不意に名前を呼ばれ、顔を上げた。だが、それはアリシアではなかった。フロイだった。
「……失礼。少し考えごとを」
そう応じながらも、胸の内では別の感情が燻っていた。
名を呼ばれるということ。言葉を交わすということ。それらすべてが、自分の手の届かぬ場所に移りつつある。
(……選ばれるのは、名を呼ばれた者)
アリシアの視線の先が、明確に“そちら”を向いているとしたら──
……もう、“護る”だけでは、届かないのかもしれない。
「王女殿下、本日はお時間をいただきありがとうございました」
文官が感謝を述べる言葉を告げる。
それに対してアリシアは軽く頷くと、侍女と一緒に出口へと向かう。その姿を、誰もが自然に見送っていた。
数歩、進んでは振り返る。控える侍女とセイルがその隣に並ぶようにして歩いていた。
本来なら──自分も、あの背に付き従うべきだった。
それが当然だったはずだ。けれど、足が動かない。
わずかな距離が、なぜか埋められないまま、ただ見送っていた。
扉の前で、アリシアがふと立ち止まった。
その動作に、思わず息を呑む。
「ゼノ様……ありがとうございました」
一瞬の間のあと、続けられたのは、ごく当たり前の言葉だった。
「今日も、ご一緒いただけて……嬉しかったですわ」
小さな微笑み。けれど、それはまるで──“区切り”を告げるもののようだった。
──扉が閉まる。
記録室の中には、書類をめくる音と、羽ペンの走るかすかな気配だけが残された。
その静けさの中、ゼノは視線を伏せた。
(……もう、護衛という立場では届かない)
これまでは守ることが役目だった。王女の身を守り、立場を守り、日常を守る。けれど、それだけでは彼女の“視線の先”には届かない。
セイルは、護っていない。ただ、隣で言葉を交わし、書類を扱い、政務の場に立ち会っている。そして、そこに自然とアリシアの“声”が向けられている。
名を呼ばれる者。言葉を交わす者。日々の積み重ねが、“隣にいる者”を変えていく。
(……彼女の隣に在りたいと願うなら)
それは、もう剣を携えていては辿りつけない場所だ。
ゼノ・グラナートという人間が、ただ“護衛”であってはならない。
静かに深く、息を吐く。胸の内で、ひとつの線が引かれる。
──もう、護衛ではいられない。
その決意が、ようやく言葉になる前に。いつの間にか戻ってきていた記録課の責任者が、控えめに声をかけてきた。
「本日の書類、これにて提出完了でございます。……グラナート殿?」
ゼノは顔を上げた。その目に、迷いはなかった。
「……ああ。ありがとうございました」
少しだけ、表情が緩む。
その笑みは、どこか静かで、どこか切実で──そして、何よりも決意に満ちていた。

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