第2話 手のひらに残るぬくもり

午後の光が、あたりを優しく照らす。山あいを満たしていた霧が、少しずつ消えていく。柔らかい風が、木々の梢をやさしく撫でていった。

その中を、ひとりの影が進んでゆく。
セイル・クレイド。王立学園に庶民ながら首席合格を果たした麒麟児。だからこそか、その瞳には、貴族や騎士のものとは違う、研ぎ澄まされた意志が宿っていた。

(……この先だ)

道しるべのない山道。だが、どこか気配が違う。そして、二日前、炎月五日の夜のことがある。
その夜、名乗らぬ使者が届けた封書に書かれていたのは、ただひとこと。

『……君にしか頼めない』

この言葉がどれほどの重みを持つものか。そして、その先にいるのは、一度だけ王城で見かけた姿。それだけのはずなのに、なぜか記憶に焼き付いて離れなかった。

王女が姿を消した。その報せを受けた翌日、セイルは独自に動き始めた。
だが学生の身で得られる情報には限りがある。そしてその夜──再び王宮から使者が訪れた。

手渡されたのは、一枚の紙。簡潔に記された座標と、主の言葉を預かっているという口頭の伝言だった。

『まだ公にはできぬ。しかし──これが、鍵になる』

座標が示していたのは、王都北西の山中にある“山荘”。ただ、地図には記されていないのが不気味さを感じさせる。

(間違いない。アリシア様は、ここにいる)

崩れかけた石塀の影に、そっと身を沈める。木々の合間に、古びた屋敷の屋根がのぞく。その傍らには、塔のように細く伸びた煙突。

──けれど、煙は出ていない。動く気配もない。あまりにも静かすぎる、その沈黙が──不気味だった。

 

◇◇◇

 

夜の帳が、山道を静かに包みこんでいた。王都を発ったのは夜のあける前。急ぎ足で進軍した一行は、日が傾く頃には目標地点に到達していた。

昼の暑さが嘘のように引き、霧が深まり始める山中。兵たちは息を潜め、気配すら殺して配置につく。

「──報告、入りました」

霧が晴れきらぬ山林に、銀の外套が揺れる。王命を帯びた出動の証として、ゼノ=グラナートはその色を纏っていた。小高い岩場に立ち、封鎖網の全体を見下ろす。

「周囲、全方位からの包囲完了。
屋敷内には複数の熱源反応。
そのうちひとつが、王女殿下の魔力波と一致──ただし、位置不明です」
「……よし」

わずかに頷き、ゼノは視線を山荘へ向ける。そこには、微かな灯りすら見えない。まるで、すでに廃墟であるかのような静けさ。しかし、嵐を避けるかのように身を低くしているようにも感じられる。だからこそ、彼は確信していた。この奥に、確かに“彼女”がいることを。

「突入は──俺が指揮する」

思わず声が荒く出て、ゼノは短く息を吐き、抑え込むように続けた。

「裏口を閉めろ。通路を一つでも残せば、奴らは逃げる」

肩に力が入りすぎているのを自覚しながらも、命令を畳みかける。

「はっ!」

騎士団員たちが静かに動き出す。声を上げず、鎧の音を最小限にとどめながら、定められた配置につく。魔術通信で各班の動きが確認され、遅滞なく包囲が収束していく。

その間にも、時間は過ぎていく。やがて、ゼノは静かに呟いた。

「……もし先に誰かが踏み込んでいたとしても」

声は低く震えていた。

「王命を受けているのは、俺だ」

それは誰に向けたものでもなく、焦りと決意がせめぎ合う自分自身への言葉だった。

 

◇◇◇

 

重く沈むような静寂が、山荘の内部を支配していた。山荘外周に人気がないことを確認できたのは昼過ぎ。夕刻ちかい今では、誰かがやってくる可能性も高い。

(この奥に、何かがある……)

そう思わせるだけの、空気の重みがあった。何かを封じ、隠し、覆い隠そうとする結界の名残。術式は簡素だが、外部からの侵入を拒むには十分な“意志”を帯びている。もっとも、鍵の構造は古い。セイルは立ち止まり、壁際に手を添える。そこには、目視ではわからない“仕掛け”があった。

(ここだ……)

ようやく、隠されていた入り口をみつけた。そう思ったセイルは封された魔術の解除を試みる。

(できるか? でも、やらないといけない……)

指先が震えた。けれど、立ち止まる理由にはならなかった。扉の内側から、ごく微細な魔力の波が漏れている。

奥へ、さらに奥へと。重く淀んだ空気をかき分けるように進み、明らかに気配の異なる扉の前で、セイルの足は止まった。

──カチャリ。音を立てて、扉が開いた。そこに、彼女はいた。薄暗い部屋。光源は壁際の燭台に残る、わずかな灯だけ。その中心に、椅子に座ったひとつの小さな影──

セイルは、ゆっくりと歩み寄り、膝を折る。

「王女殿下……」

その声に、アリシアの目がかすかに揺れた。だがすぐに見開かれ、彼を見つめる。

「……だれ……?」

声がかすかに震えていた。

「王太子殿下の命を受けた、セイル・クレイドと申します」

その声に、アリシアの目が大きく見開かれる。不安と安堵がいっしょくたになったような表情に、セイルはそっと手を差し伸べた。

「さあ、お立ちください。もう大丈夫です」

その言葉に、アリシアはこらえきれず、瞳から涙をこぼした。

「……こわかったよ……っ ……ひとりで……ずっと……」

そう言いながら、か細い手を彼へ伸ばす。その声にセイルの胸も大きく揺れる。差し伸ばされた手を取ろうとした時――

──バンッ。扉が大きな音を立てて開かれた。

「アリシア様!」

力強く、けれど焦りを孕んだ声が、部屋の空気を切り裂く。銀の外套が翻る。ゼノ・グラナートが、剣を帯びたまま、駆け込んできた。

「っ……!」

セイルの手が止まる。アリシアもまた、身動きを止めたまま、目を見開いている。

ゼノは一直線に距離を詰め、少女の前に膝をつくと──その身体を迷いなく、抱き上げた。その時、アリシアの小さな手が彼の軍服の胸元をきゅっと握る。そこには見慣れた近衛のまとう色と同じ銀が見えたからだろう。

儚げに見える手だが、つかまれたことでゼノは安堵の息を漏らしていた。小さな肩が小刻みに震えているのも見える。

「無事ですか、アリシア様……!」

声には、震えよりも安堵と……わずかな焦燥が混ざっていた。そして彼は、その背に視線を向けることはなかった。セイルの存在は見えている。手を差し出していたことも、アリシアが何かを言いかけていたことも、分かっている。けれど、この場で王女を保護すべきなのは、自分だ。

(命を受けているのは、俺だ。この任を、誰にも譲る気はない)

それは責任であり、誇りであり、そして、抗いがたい衝動でもあった。

「……ゼノ……さ、ま?……」

かすかに届く声に、ゼノの腕の力が強くなる。そんな彼の耳に、アリシアの嗚咽を含んだ声が届いていた。

「お父様に……お兄様に……会いたいの……」
「はい、大丈夫です。わたしがアリシア様を王城までお連れいたします」

その声に安心したように、アリシアのしゃくりあげる声が室内に響く。それは緊張がふっとほどけたことからの安心もあるのだろう。

彼女を腕の中におさめたゼノは、セイルへ視線を向けなかった。礼も、確認もない。ただ腕の中の王女だけを見つめたまま、踵を返す。そして、セイルはアリシアに向けて差し出していた手を、ゆっくり引いた。

「……ゼノさま。来てくれてありがとう……」

腕の中にいるアリシアのかすかな声。それを耳にしただけで、彼の中には言いようのない安心感が育っているのだった。

 

◇◇◇

 

差し伸べた手は、空を掴んだままだった。目の前で、ゼノ=グラナートがアリシアを抱き上げる。鋭い動きに迷いはなく、どこか焦燥すら感じさせるその背には、ひとつの信念が宿っていた。

(王命……)

そう、自分もまた、その命に従ってここに来たのだ。そして、アリシアは震える手を、こちらに伸ばそうとしてくれた。

たった数歩。もう少し早く駆けつけていれば──そんな後悔が、胸をかすめる。けれど今、彼女の身体は別の誰かの腕の中にある。自分の声にも、手にも、もう届かない場所で──

結局、何も言わないままセイルは立ち上がり、静かに一歩後ろへ退いた。

(抱き上げる役目じゃない。名を呼ばれるために来たわけでもない)

そう言い聞かせながら、彼は一礼すると、足音も立てずに部屋を後にした。廊下には、すでにゼノが率いてきた兵たちが駆け込んでいる。屋敷の安全確認が進められ、連絡役の兵が次々と外へ向かって走っていく。

喧騒の中、セイルは誰とも目を合わせず、ひとり静かに山荘の裏手へと抜けた。手のひらに、あの温もりが残っている。ほんの一瞬。触れようとした、小さな手の柔らかさ。

(……よかった。間に合って)

そう思う自分がいる。でも、そう思おうとする自分が、少しだけ、つらかった。

「地下室、制圧完了! 目標、確保!」
「抵抗はなし。拘束対象を確認──」

背後から聞こえてくる報告の声に、セイルは振り返らなかった。夜の山風が、草を揺らす音がした。その音に紛れるように、セイルはひとつ、静かに息を吐いた。夜風の中、彼はその“何か”に名をつけぬまま、静かに歩き出した。

 

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