第1章 消えた王女と揺れる宮廷

第1話 消えた王女

王女宮には、明るい空気が流れていた。かつての仮宮が、正式に王女の宮と認められてからまだ数日。人の出入りが増え、調度も整えられ、どこか華やいだ雰囲気が漂っている。

宮の主である王女アリシアは、10歳になったばかり。そのために、集められた侍女たちの年齢も幼い。そんな少女たちが集まれば、空気が軽くなるのは無理もない。

初夏の風がそよぎ、中庭からは芝生を踏む足音がかすかに届いてくる。仮宮からの改装は終わったとはいえ、まだ人の出入りが多い時期ともいえた。

そんな炎月五日の昼前。アリシアは、侍女たちとともに宮内の小間で早めの昼食をとっていた。

「あら、フェルミナは?」
「フェルミナ様は所用で席を外されました。マティルダ様も同行されております。何かお困りのことでもございますでしょうか?」
「いいえ。今日は、あなたたちと一緒がいいわ。お食事、冷めないうちにいただきましょう」

温かなポタージュに焼きたてのパン。小皿に盛られた果実のコンポートが彩りを添え、気持ちをふっと緩めてくれる。

そんな彼女の髪に、白百合の飾りが初夏の風に揺れていた。10歳の誕生日に、兄である王太子エドワルドから贈られたもの。王家の象徴でもある花は、金色の髪に映え、幼い横顔をやわらかく縁取っている。

「……姫様」

食事が終わり、午後の予定までのひと時。侍女たちはそれぞれの仕事に向かっている。そんな中、午後の付き添い役を任されていたエルマが恐る恐る声をかけてきた。アリシアより一つ年上の11歳の侍女。まだ背も低く、ぎゅっと握りしめた手が新しい侍女服のスカートを乱している。

「どうかしたの、エルマ?」
「え、えっと……小さなお部屋をみつけたんです。お時間があれば、一緒に見に行きたいな、と思って」
「お部屋? それってエルマの探検ね」
「はい。ですので、姫様とご一緒に見つけた場所に行きたいと思いまして」

エルマの声にアリシアの表情が一気に明るくなる。どこかウキウキしたような表情と少女らしい声が飛び出していた。

「行きたいわ!」

弾かれるように椅子から立ち上がったアリシアは、エルマの手を握る。その柔らかな白い手にエルマが目をパチパチさせていた。

「……姫様? ほんとうに、よろしいのですか?」
「あら、エルマが探検って言ったんじゃない。まだ時間もあるし、行ってみたいの!」

侍女と一緒に昼食の片づけをしていた乳母が困ったような顔をする。それに対しても、アリシアは無邪気な笑顔を向けていた。

「大丈夫よ。ちょっとだけ探検してすぐに帰ってくるわ。エルマが一緒だから一人じゃないし」
「……仕方がございませんね。フェルミナ様がお戻りになったときにお叱りをうけないようにしてくださいね」
「わかっているわよ。エルマ、行きましょう!」

そう言ってから廊下へ出ると、空気が少し変わった。窓から差す光は同じはずなのに、人の声がしない。にぎやかだったはずの王女宮が、急に広くなったように感じられた。

胸の奥で、ちいさな引っかかりが動いた。でも、これは冒険。だったら、当然じゃないか。そんな思いでアリシアは前を向く。そんな彼女に手を引かれるようにしてエルマも静かに足を運ぶ。

「ねぇ、エルマ……こっちなの?」
「はい。私も昨日の夜、みつけたんです。姫様のお部屋からはちょっと離れているんですけど……でも、なんだかおしゃれで姫様にも見てもらいたいなって思って……」
「そ、そうなのね。じゃあ、早くいってみてみないと。あんまり遅くなると、フェルミナが帰ってくるわ」

誰も通らない廊下を歩くことで、不安も大きくなっていく。アリシアは無意識に髪飾りに触れていた。白百合の感触が指先に残り、少しだけ心が落ち着く。

二人がたどり着いたのは、王女宮の奥――これまで使われていなかった、小さな部屋の前だった。

「このお部屋……?」
「はい。鍵がかかっているかと思ったんですけど、そうじゃなくて。中をみたら、すてきな鏡とか見えたんです!」

ちょっと興奮したようなエルマの声。それに引きずられるように、アリシアは扉に手を伸ばしていた。磨かれた木の扉は年季を感じさせつつも、軽い音を立てて静かに開く。

中に広がっていたのは、まるで時間が止まったような空間だった。日差しに照らされたレースのカーテン。金糸を織り込んだクッション。壁際の化粧台には、古風な銀の手鏡がぽつんと置かれている。誰かがさっきまでここにいたようにも見えるのに、空気だけが古い。

「……なんだか、絵本の中のお部屋みたい!」

アリシアは碧の瞳をきらりと輝かせ、小走りに部屋へ入っていく。

「ほら、見て。縁に百合の模様が……わたしの髪飾りとおそろいみたい!」

化粧台の前で、銀の鏡を覗き込む。そこに映るのは、金の髪と白百合の飾り。幼い頬の、やわらかな色。

「姫様――」

背後で、エルマの声がかすかに震えた。怒鳴るでも、止めるでもない。たぶん、言葉の形になりきらない声。
アリシアは、鏡を持ち上げる。ひんやりとした重みが掌に乗った。

「……きれい。ねぇ、エルマもそう思うでしょう?」

アリシアの指先が、銀の鏡に触れた。
その瞬間、空気が揺れた。炎でも風でもない。光の輪郭そのものが、薄い膜を引かれたように歪む。

「……え?」

言葉が終わるより先に、少女の輪郭が淡く滲んだ。
金の髪も、白百合の飾りも、次の瞬間には掻き消える。
そこに残ったのは、化粧台の上に置かれた、銀の鏡だけだった。

「……姫様?」

返事はない。部屋の中に、王女はいない。エルマは、呼吸の仕方を忘れたように立ち尽くしていた。理解が追いつかず、視界の端が白くなる。

(……な、なにが……あった、の?……)

そんな彼女の頭の中で優しい声が響いてくる。

――これを部屋に置いておくれ。エルマにしか頼めないんだよ。お願いできるよね。

エルマの中で甘い匂いと一緒に、残された柔らかい声。頭を撫でてくれる大きな手の感触も残っている。

“そのあとは鏡は持って帰ってきてくれるね。エルマならきちんとお使いができると信じているよ。”

それだけが、頭の中で反射みたいに繰り返された。エルマは震える手で鏡を掴んだ。冷たい金属が掌に食い込み、痛いほど現実を突きつける。
――けれど。鏡の冷たさよりも、胸の奥のほうが先に壊れた。膝が抜けそうになる。視界が滲む。喉がひきつれ、声が出ない。

(……どうして……)

命令を守った。守ったはずなのに、主が消えた。息を吸う。吸えない。胸が詰まる。肺が鳴る。吐き出す空気が震える。

「――ひ」

漏れた音は、言葉にならなかった。それでも次の瞬間、喉の奥から無理やり押し出す。

「……ひ、姫……っ」

声が、室内で一度だけ跳ね返った。
エルマの声が反響し、宮の中にざわめきが走る。

「今の声は!?」「何が──」

午後の持ち場についた近衛の声が響き、廊下の空気が一斉に張りつめた。

「姫様が……姫様が……っ!」

泣き声混じりに同じ言葉を繰り返しながら、エルマはしゃがみこんでいる。胸に抱えた銀の鏡が小刻みに震えていた。

「姫君はどこに行かれた? 答えよ!」
「わ、わたし……わからなくて……っ!」

エルマは同じ言葉しか口にすることができない。

「黙れ!」

近衛兵の怒声が廊下を裂いた。強い腕がエルマの肩を掴み、乱暴に小さな体を持ち上げる。
抱え込んでいた鏡が手から滑り、硬い音を立てて床を跳ねた。

「下がれ! 近衛以外は近づくな!」
「医務官を呼べ! 術師もだ、魔術の気配がある!」
「結界班、反応を確認しろ! 現場だ、何かが残っている!」

怒号と指示が飛び交い、侍女たちの悲鳴が重なる。そこにバタバタと駆け込んできたのはフェルミナとマティルダ。普段は落ち着いた二人の顔がこわばっている。

「何があったのですか! 私に無断で何をするのです!」

近衛に対して恫喝する声を上げるフェルミナ。そして、一歩踏み出しかけるマティルダの足が寸前で止まった。近衛が張った腕の壁が、彼女たち二人の前に立ちはだかっている。

「姫様が……っ!」

エルマは涙で顔をぐしゃぐしゃにしながら、それしか言えなかった。

「拘束を。――この子、逃げようとした」

近衛の声が短く落ち、エルマの腕が背に回される。抵抗はない。ただ、崩れるように震えていた。剣の鞘が鳴り、足音が重なる。人が、雪崩れ込むように集まり始める。

混乱の渦のただ中で、マティルダは床の鏡に視線を落とした。あれが“姫様が消えた瞬間”に残った唯一のものだ。駆けつけた術師が、床に転がる鏡を見た瞬間、顔色を変えた。指先を伸ばしかけて――触れずに止める。

「触れるな。……媒体だ」

その一言で、廊下の温度が変わった。“物”ではない。触れた者を巻き込む“装置”だと、誰もが理解する。

「ば、媒体……ですか?」

まだ若い近衛が鏡に手を伸ばそうとする。その手を術師がぐっと掴んでいた。

「勝手に触るな。何があっても知らんぞ。近衛、その鏡は、布で包め。下手に触れるとまた被害が出るぞ」
「了解」

近衛が即座に応じ、術師の合図を待ってから、厚布を二重にかける。鏡面が隠れた瞬間、廊下のざわめきがわずかに沈んだ。

「封印箱を」

術師が淡々と言う。

「ここで封を切らせるわけにはいかない。魔術局へ直送する」

近衛が頷き、箱が運ばれる。鏡は布ごと収められ、封が施される。――その手順だけが、異様な静けさで進んだ。
炎月五日。王女アリシア失踪の第一報は、王宮上層へ届けられる。だが現場はまだ、混乱のただ中にあった。

 

◇◇◇

 

マティルダの背後で、かすかなすすり泣きが続いていた。拘束されたエルマが、廊下の床に座り込んだまま、鏡が置かれていた場所を見つめている。そこにはもう何もない。それでも、視線だけが離れなかった。

「わたし……なにも……」

喉に引っかかったような声が、途切れ途切れに落ちる。

「あの……ただ……言われた通りに……」

その言葉に、マティルダの眉がわずかに動いた。だが、今は掘り下げるべき時ではない――判断は、即座についた。

「……この子は保護して。別室へ」

命じる声は低く、感情を抑えたものだった。頷いた近衛が近づき、エルマの腕にそっと手を添える。
廊下に、重々しい足音が増えていく。王宮内の騎士、文官、王立魔術院の術師――王女が“消えた”という報せは、静かに、しかし確実に広がり始めていた。

「……誰か、記録課へ急報を。上申文の準備を」

マティルダの指示に、即座に侍女が動く。だが、その背で、別の声が小さく漏れた。

「で、でも……本当に……姫様が、消えたのですか……?」
「確認したでしょう」

返した声は、きっぱりとしていた。

「宮内に、お姿はない。それが事実です」

言葉が落ちた瞬間、空気が一段、冷える。

「今は動揺している場合ではありません。侍女たちは、この部屋には一歩も近づかないように」
「は、はい……!」
「フェルミナ様、こちらで差配して申し訳ございません。ただ、お手数ですが本宮殿に明日の予定の中止の連絡をいただけますでしょうか?」

マティルダの声にフェルミナは短くうなずいている。そんな時、本宮殿の方角から別の音も聞こえてきていた。

「王女殿下は……?」
「失踪だ。詳細はまだ――」
「封鎖を優先しろ。誰も入れるな!」

怒号と足音が廊下を満たし、秩序は瞬く間に飲み込まれていく。

そして――その知らせは、数分後。王城から少し離れた、王立学園へと届くことになる。

「……アリシアが?」

静かに立ち上がった少年の声は低い。だが、確かにその場の空気を震わせていた。

 

第2話 急報、王立学園の昼休み

──その日、昼休みの終わり。王立学園の中庭は、初夏の陽光とざわめきに満ちていた。若葉を揺らす風が、校舎の一隅を撫でていく。そこでは、互いに気を許し合うように、ふたりの少年が言葉を交わしていた。

ひとりは、王太子エドワルド。名の重みを当然のように背負いながら、それを誇ることも飾ることもなく──昼食代わりの果実を、淡々と口に運ぶ姿には、気負いの気配は見えない。

その向かいにいるのは、セイル=クレイド。今春、庶民枠から首席で入学した新入生。身分差を気にする素振りもなく、セイルは当然のように隣にいた。王太子の“話し相手”という立ち位置も、いつの間にか定着している。

「昨日の魔導書、ありがとうございました。やっぱり、魔法陣の法則性ってきれいですね」
「そうか? 古代文字だから読みにくいかと思ったが?」
「はい。……ただ、配列は安定してました。だから、読めたかなって感じです。といって、殿下こそお忙しいのにあれを解読したんですか?」
「……帰ったら、再読しておく」

軽口を交わすふたりの間には、肩肘張った空気は微塵もない。その穏やかさは、信頼と実力に裏打ちされたものだった。

──だが、そんな空気を断ち切るように、従者の足音が近づいてくる。駆け込んできたのは、王家直属の従者。側近のひとりだ。

「エドワルド殿下──!」

その名を呼ぶ声が響いた瞬間、周囲のざわめきがぴたりと止まった。学園の昼下がりに、目に見えない緊張が走っていく。エドワルドは、呼ばれる声に応じるように立ち上がる。その眼差しには、さっきまでの柔らかな光がすでに消えていた。

「……なにがあった」

静かに問うた声は、鋭く張り詰めている。従者はひと呼吸おき、言いにくそうに告げた。

「……姫様が……姿を消されたと!」
「姿を消した、だと?」
「は、はい……現場は混乱しており……」
「馬車を回せ。すぐに城へ戻る」
「すでに手配済みです。正門前に──」

頷いて歩き出したエドワルド。その背に、「殿下……」というセイルの声が耳に入ってきていた。いつもなら振り返って返事をするはず。だが、今のエドワルドは振り返りもしない。

「まだ何も言えない。おまえは、ここで待て」

その言葉に、セイルは深く頭を下げることしかできなかった。なんといっても、彼の立場では王城への同行は許されない。そして、エドワルドは「何も言えない」と告げた。それがすべて──そう理解していたからこそ、セイルは何も言うことができなかった。

 

◇◇◇

 

エドワルドが立ち去った後、昼休みのざわめきが徐々に戻りつつあった。けれど中庭の一角には、妙な静けさが残っている。まるで、言葉の届かない余韻だけが、そこに置き去りにされたように。

セイルは、芝生の上に伏せられていた本を無言で拾い上げ、視線を避けるように立ち上がる。制服の肩に揺れる木漏れ日が、なぜかひどく遠いものに思えた。

──王女殿下の失踪。声として交わされた会話は、誰にも聞かれていない。それでも、空気が変わったことに気づいた者はいた。不安という名のざわめきが、どこかで芽吹いている。

「殿下、急に帰られたけど……何かあったのかな」
「やっぱり王族って、ああいうときの顔つきが違うね……」

そんな声が遠巻きに聞こえてくる。

(……王女殿下が、消えた)

自分の耳を疑った。しかしエドワルドの反応──あの瞬間の眼差しは、ただごとではなかった。

(何が、あった?)

セイルは拳を握った。だが、その手はかすかに震えていた。胸の奥が熱くなり、喉は焼けつくように乾いていく。自分はまだ、なにも知らされていない。知る資格も、立場もない。

それでも──どうしても、ただの“学友”としてやり過ごせる気がしなかった。いつもなら、エドワルドの帰城は冗談のひとつも言って見送るのに。今回は、それができなかった。

 

◇◇◇

 

馬車の車輪が土煙を上げて、王都の石畳を駆け抜けていく。エドワルドは窓の外を一瞥したきり、一言も発していなかった。指先に残るのは、握りつぶした果実の香り。昼食の果物の甘い香りが、今となっては場違いなほどに遠かった。

アリシアが──妹が、いなくなった。どこに、どうやって? なぜ? そもそも、信じられない。だが、従者の顔つきから見て、ただの取り違えや聞き間違いでないことは明白だった。

(まさか、本当に……)

17の王太子は、同じ血を引く妹を、まだ“子ども”として守れると思っていた。口の中が、からからに乾いていた。拳を握る。気がつけば、もう王城の塔が視界に入ってきていた。

馬車が王城の中門に滑り込むと、馬車停めのあたりには、近衛の数人が詰めていた。いつもであれば、王城の奥での勤めのはずの面々。本来の役目とは違うある種の異様な配置に、エドワルドはただならぬ緊張感を読み取る。

(父上も、何かを感じておられるのだ……)

馬車の中で息を吐き、王太子としての顔を、無理やり作る。そんな彼の耳には、「殿下がお戻りになられました!」という声が飛び込んできた。

それを受けて出迎えたのは、父王直属の近衛副長。普段はあまり表に出ない人物が直々に立っている。それだけで、事態の深刻さが伝わってきた。

「報告を」
「王女殿下が……失踪されました」

エドワルドは歩を進めた。

「……場所は?」
「王女宮内の一室。もとは王妃殿下の私室だった部屋です」
「侍女は何をしていた」
「……付き添いの侍女だけは“その瞬間”を見たと──」
「見ていたのか?」
「は、はい。王女殿下が鏡に触れた直後、忽然と姿を消されたと」
「鏡……?」

彼の眉がぴくりと動いた。だが──考えるより先に、足が勝手に動いていた。妹が消えたという部屋。その扉の前には、近衛とアリシアが信頼している侍女、マティルダの姿が見える。

「……マティルダ!」

呼びかけに応じ、マティルダが顔を上げた。その顔に、いつもの凛とした影はなかった。

「……アリシアは」

一瞬、彼女は言葉を失う。唇が震え、沈黙ののちに絞り出す。

「……お姿は、どこにも」

その言葉に、エドワルドは扉の向こうを見つめた。まだ幼い妹。その姿が、跡形もなく消えた? 信じられない。信じたくない。だが──事実として、彼女はそこにいない。

「術師は?」
「ただいま調査中です。初動で近衛の感覚では嫌な気配があったというのですが……術式痕跡は、今のところゼロとのことです」

近衛の淡々とした口調での報告。だが、語られる言葉は異常でしかない。ゼロ──つまり、最初から、そこに存在しなかったかのように。この報告にエドワルドの脳裏をよぎったのは、作為の匂いだった。だからこそ、その口から押し殺した声が漏れる。

「……ありえない」

低く呟いた声に、傍らの近衛が思わず息を呑んだ。その声音には、まだ17の若者に似つかわしくない硬さが宿っていた。

エドワルドが扉の前に立った瞬間、近衛の誰もが一瞬、判断をためらった。事件性の高い現場に王太子を入れるべきではない──理屈では、そうだ。だが、その一瞬の逡巡のあいだに、エドワルドはもう扉に手をかけていた。その手を副長が一歩塞ぐ。

「殿下、ここより先は――」
「どけ、責任は俺が取る」

言い放ち、室内に踏み入った彼の目に映ったのは、不自然なほど整った光景。倒れた椅子も、破れた帳もない。まるで──最初から、誰もいなかったかのように。

「……この部屋には、誰が最初に入った」

絞り出す声に、マティルダが応じた。

「わたくしと、第一近衛の副長です」
「その時、アリシアは?」
「すでに……姿はありませんでした」

一瞬、空気が凍りつく。エドワルドは目を伏せ、深く息を吐いた。術師の報告では、転移痕跡も魔力の乱れもない。だが──そんなはずがあるものか。

「……偶然などではない」

言葉と同時に、彼の眼差しが鋭く光を帯びる。もはや少年と呼ぶには遠い気配だった。

「誰かが、仕組んだ」

王宮の内部で、魔力の痕跡すら残さず、王女が“消える”など──常識的に考えてあり得ない。ならば、常識では測れない何かが、ここで起きたということ。

「……エグバートを呼べ」
「記録課の……ですか? ですが、あの課はこういう事態には不慣れでは──」
「不慣れでも構わん。彼なら必ず見抜く。王太子の命だ、すぐに動かせ」

近衛の問いかけに、エドワルドは即答した。

「解析と報告、両方だ──同時に進めろ」

その瞬間、王女宮に重い緊張が走った。──兄としての動揺を、封じ込めるように。──王太子として、己の務めを全うするために。エドワルドは、唇を噛みしめた。

(アリシア……必ず見つけ出す。どんな手を使ってでも)

この事態をこのままにしておくことはできない。彼自身の知らぬ鍵が王宮の”内”にある──直感が、そう告げていた。

窓の外では、初夏の陽がまだ明るく差している。だがその日、王宮の空気は、誰もが息を呑むほど重く、冷たかった。

 

第3話 宮廷、乱れる

炎月五日の夕刻。
日没が迫り──宮廷はすでに修羅場と化していた。

「誰だ、あの侍女に付き添わせたのは!」
「待ってください、指示が出たのは昨日の夕刻です!」
「王女殿下が“部屋から”消えたんだぞ!? いつの話をしている!」

言葉が言葉を遮り、声が重なっていく。

「だから、順を追って説明を──!」

怒号と混乱の応酬が、王女宮の一角を支配していた。
臨時に設けられた応接室には、文官と近衛、そして数名の侍女たち。
誰がどこまで事情を把握しているのかさえ曖昧なまま、関係者だけが次々に詰め込まれ、気づけば誰も収拾のつけ方を見失っていた。

「第一近衛は、なぜ部屋の前を離れていた!」
「正規の交代時間です。巡回報告も記録されています!」
「現場の結界、異常なしって……どういう意味だ!?」

文官たちは、指示を出す者と記録を取る者に分かれ、それぞれが別の方向を向いたまま言葉を重ねる。
報告は積み上がらず、ただ散らばっていくだけだった。

「第六課は、記録はまとまったか!」
「証言数が多すぎて……まだ全体の整理が──」
「だからといって、出せない理由にはならんだろ!」
「第七課はどうした! 報告が一枚も上がってこないぞ!」
「様式が未確認のままでは出せません! 形式を外れれば無効になります!」
「杓子定規ばかり言っている場合か!」
「記録がばらばらでは、そもそも証拠になりません!」

文官たちの声が、重なり合い、やがて意味を失っていく。
誰もが焦り、誰もが責任を避け、それでも時間だけが、確実に過ぎていった。

――このままでは、王女の失踪は“事件”ではなく“噂”になる。

そして噂は、都合のいい形に育つ。
その恐怖だけが、全員の喉を締めつけていた。

そのとき――

廊下の奥から、硬い足音が近づいてきた。
だが、その足音に応じて、顔を上げる者はいない。

まるで、聞こえなかったかのように。
ただ、空気だけが、わずかに沈んだ。

「……通せ」

低く、落ち着いた声だった。
それだけで、応接室のざわめきが一段、沈む。
誰もが、今さら息を整えることもできず、ただ、音の消えた空間を受け止めた。

扉が、静かに開く。
現れたのは、長身の男だった。

黒髪。簡素な上着。左手には、革張りの記録帳。
その立ち姿だけで――応接室に残っていた最後の雑音が、完全に消えた。

「本日付、王太子殿下の指示により」

男は一拍置き、淡々と告げる。

「聴取記録の臨時統括を預かる。状況を」

声量は抑えめだったが、その語調に“拒めない力”があった。

「第六課――記録課の、エグバート・グランヴィルだ」

その名が落ちた瞬間、数人の背筋が反射で伸びた。
第六課、記録課はまだいい。その中でエグバートという人物は、扱いが違う。

「……第六が、ですか?」
「この件は“記録に残す”と判断された。だから俺が来た。ただそれだけだ」

その声音はどこか苦笑めいていた。だが、現実味を帯びたその態度が、場にわずかな冷静さを取り戻させた。文官と近衛たちは、顔を見合わせた。まるで、異物を前にしたように。

「状況はまだ流動的で……情報が錯綜しておりまして」
「だったら、今ある分だけでいい。手がかりと証言の整理、提出された台帳、近衛の巡回記録──最優先で確認したい」

ひとり、エグバートは歩を進める。まるで、ここが自分の部署であるかのような無遠慮さ。けれど、誰も止めなかった。止められなかった。

「姫君に最後に随行した侍女は?」
「エルマです。現在、別室に拘束中──取り調べの途中ですが……」
「記録は誰が?」
「第七課は確認が……“王印の手続き待ち”で手が出せなく……」

言い淀む文官に、エグバートは即座に言い放つ。

「王印が絡むと、誤記が“国家の記録”として残る。だから第七は動けない。それはわかる。
だが、待ってられないから、俺がやる。部屋へ案内しろ」
「お待ちください。最終確認は本来、第七課の範囲で──」
「形式より先に、やることがあるだろう」

冷えた声音に、誰も言葉を継げなかった。実際、この場にいる誰もが知っていた。

「たしかに、そうではありますが……」
「七課は綺麗ごとでまとまっとけ。うちはうちの流儀がある」

エグバートの言葉はある意味の真理。第七課が動くには、手順を確認し、許可を得て、様式を整えてから。だが──そんな余裕は、今はない。

「王太子殿下の命による臨時措置だ。文句があるなら、あとで正式に抗議すればいい。今は、記録を残す」

その口調に押されるように、近衛のひとりが小さく頷いた。

「……こちらへ」

それは“押し通す”のではなく、“当然のように引き取る”態度だった。記録は混乱の只中でこそ価値を持つ──それを誰よりも理解している者の動き。

応接室の一角、扉の先にある小間。その中に、ひとりの少女が座らされていた。侍女服に身を包み、蒼白な顔。両手は拘束されているものの、その震えからは抵抗の気配はない。

「氏名、部署」

その一言に、少女は肩をびくりと震わせた。喉が詰まったように言葉を探し、ようやく小さな声を落とす。

「……エルマ。……王女宮付きの、侍女です」

エグバートは頷くと、すぐさま記録帳を開く。

「最後に王女殿下と接触したのは、炎月五日の午後十二時頃。部屋の場所、渡した物品、そのときの第三者の有無──順を追って、教えてもらおう」
「……はい。……あの、渡したものは……なくて。私は、ただ……お部屋まで……」

一言ごとに声が細くなっていく。

「……鏡は、最初から……そこに」

エルマの答えに、エグバートの眉がピクリと動く。

「あの部屋は長い間、封鎖されていた。それを改装したと記憶している。職人も入っていたはずだ。それなら鏡がある記録は残る。だが──なかった」
「……」
「……そうか。“自然にあるはずのないもの”がそこにあった。それが問題なんだ」

問い詰められ、エルマは唇を噛み、首をすくめた。小さな肩が震えている。

「……べつに黙っててもいい。けどな、そのとき全部背負うのは、お前だ」

冷えた声音に押されて、少女の瞳に涙がにじむ。やがて諦めるように、途切れ途切れの声が落ちた。

「……王女宮の侍女になったのが決まったとき、“アリシア様がお気に召すはずだから”って……。……鏡を……持っていくようにって……本家の方から……鏡を……」
「“本家の方”? 誰の指示だ」
「……」
「脅されているのは分かる。――家族か?」
「……指示じゃ、ありません。頼まれた、だけ、です……」

脅かされたのではない。エルマの中にはそんな思いだけがあった。だからこそ、声を震わせながらもエグバートの言葉に反論する。

その声には、これが絶対だと信じている響きも含まれていたのだろう。エグバートは記録帳を閉じなかった。ただ一拍置き、低く告げる。

「わかった。頼まれただけなんだな。じゃあ、これ以上、君にたずねるのはやめにする」
「え……?」
「だが、掘り起こすのは俺たちの仕事だ。文官ってのは、そういう生き物だ」
「……でも、でも……ほんとうに、頼まれただけなんです。鏡を姫様にって……」

すすり泣くエルマの声をエグバートは聞いているだけ。そのまま、彼はパタンと記録帳を閉じていた。

「……記録、以上」

室内は静まり返っていた。威圧はなかった。怒声もない。ただ、静かな圧と理詰めの問いが重ねられただけだった。なのに──疲弊していたのは、取り調べを受けた侍女だけではない。同席していた文官たちの誰もが、肩で息をしていた。

「……この場の記録は、責任を持って第六課が引き取る。今後の聴取も、そちらで行う」

誰かが何かを言いかけたが──結局、言葉にはならなかった。この場の誰もが理解していた。“この男が来た”という事実が、すでに異例なのだと。

エグバートは静かに立ち上がる。手元の記録を一冊にまとめ、文官のひとり──後ろについていた若手に手渡す。

「フロイ、これは控えとして課に回せ。……本部の保管庫じゃない。『第六』に、だ」
「っ、は、はいっ!」

エグバートはそれ以上、何も言わずに振り返った。

「侍女エルマ、引き取る。同行者をつけろ」
「グランヴィル文官、しかし……王太子殿下の名の下とはいえ、他局の記録案件を単独で──」

またしても、中堅文官の誰かが口を挟もうとする。だが──エグバートは、それにさえ立ち止まらずに言い捨てた。

「文官ってのはな、“言葉”で責任を背負うんだ。書いた記録は、背負う覚悟がいるんだよ」

それきりだった。彼は、扉の向こうへと去っていった。蒼白な侍女と、フロイを従えて。

応接室の扉が閉まったあとも、空気はしばらく戻らなかった。

「……なんだったんだ、あの人……」

誰かが漏らした声は小さかった。けれど、その小ささが逆に、場の疲労を物語っている。文官たちは互いに視線を交わし、誰もが同じ結論に辿りついた顔をしていた――“第六”が来た、という事実だけで。

「記録を引き取る、って……」
「殿下の名を盾にしてたが、あれは……盾じゃない。本人が背負うつもりだった」

近衛のひとりが、扉の向こうを見つめたまま呟いた。

「……最も動きたいはずの人間が、最も動けない立場にある。だから、あの男が来た」

誰も否定しなかった。

その夜、王女宮の回廊には近衛が立ち、侍女は二人一組でしか動けなくなっていた。宮廷は混乱の只中にあった。そして、その混乱が“都合よく育つ”ことを願う者が、どこかにいる――そんな匂いだけが、薄く漂っていた。

 

第4話 動けぬ兄 

 
――動けない。

その事実が、何よりも彼を苛立たせていた。

本来なら、自分が現場に立てばいい。王女宮の封鎖、証言の整理、近衛の動員。剣を抜く必要すらない。“王太子が動く”というだけで、止まっている歯車は一斉に回り出すはずだった。

なのに、今、許されているのは「座して待つ」ことだけ。

執務室には灯が点り、窓の外には炎月の空が広がっている。日が傾き、昼と夜の境が曖昧になる刻限――いつもなら、学園の講義を終え、政務の報告を片づけ、翌日の予定を確認している時間だ。

今日は、違う。

机の上には、書簡と報告書が積まれていた。近衛隊から、文官局から、宰相付きから、女官長付きから。誰もが一斉に“王女殿下の失踪”に関する紙を上げてくる。だが、それらは結局、同じところを回っているだけだった。

「……つまり、決定打がない」

呟いて、エドワルドは紙束に視線を落とす。書かれているのは、断片と、推測と、責任回避の言い回し。

――魔術痕跡なし。
――転移の気配なし。
――結界反応なし。

どれも、ありえない。
妹が“消えた”。それが事実なら、何かが残るはずなのに。

椅子の背に手をつき、立ち上がる。静かに音を立てて床を踏み、窓辺へ歩み寄った。王城の中庭が見える。芝生の緑、その先にある南塔――王女宮のある一角。

(……アリシア)

昨日まで、いや、数時間前まで笑っていた妹が、忽然と姿を消した。10歳の少女だ。飛び出す理由も、飛び出す力もない。

――誰かが、仕組んだ。

考えたくない言葉が、胸の奥で形になる。王宮の内側で、痕跡を残さずに。しかも、王妃の部屋を利用して。

そこまで考えたところで、喉の奥が熱くなった。

(……行かせてくれればいいものを)

ほんの小さな声だった。けれど、部屋の静けさがそれを拾い、窓にぶつかって消えた。

父王と対峙したときの声が、脳裏をよぎる。

『心配、せぬはずが……ないだろう!』

怒りではない。あれは、苦しげに胸の奥を押し殺した――父親の声だった。

だからこそ、理解している。

王太子が現場に出る意味は、単なる“捜索”ではない。王家が公式に介入するという宣言だ。世論が動く。貴族が動く。敵も動く。

もし、それが王女の失踪なら――政治的な波紋は、計り知れない。

(……わかってる。わかっては、いる)

拳を握る。爪が掌に食い込み、痛みが残る。

それでも。
それでも、行きたい。
妹のところへ。自分の目で、現場を見たい。自分の手で、確かめたい。そうしなければ、息ができない。

――ノックの音がした。

控えめで、しかし迷いのない回数。王太子付きの者だけが知る合図。

「……入れ」

返事をした声は、思っていたよりも平静だった。だが、扉の向こうの気配が、いつもと違うことだけはわかる。報告か。あるいは――許されぬはずの、何か。

声をかけると、すぐに扉が開き、若い文官が頭を下げながら入室する。王太子付きの補佐官、リュシアン。年若いが冷静沈着な性格で、学業と政務を両立する彼の片腕とも言える存在だった。

「殿下、記録課より最新の記録が届いております。応接室での聴取、ひとまずの要約とのことです」
「……“あの男”が動いたか」
「はい。記録課のエグバート・グランヴィル殿が現場を指揮し、侍女のひとり──エルマ殿を拘束。聴取のために一室へ移送したそうです」

名を聞いた瞬間、眉がわずかに動く。

「……やはり、来たか」

口の端にだけ、わずかな笑みが浮かぶ。

「他の文官たちには多少の混乱もあったようですが、現場の統率は──殿下の御名のおかげで、という形で落ち着いたようです」
「彼を呼ぶよう指示したのは俺だ。文官たちへの対応は、正しかった」

軽く肩をすくめるように、苦笑混じりでそう答えた。だが、なによりも重要なのは、彼の介入によって現場が混乱から一歩抜け出したという事実だった。それだけでも、充分に意味がある。そう思いながら、エドワルドは、無理を承知で問いかける。

「……リュシアン、もし俺が本気で“現場に出る”と言ったら──おまえは、止めるか?」

唐突な問いだった。だが、補佐官はわずかに目を伏せたあと、静かに答える。

「殿下のご判断が“兄として”のものならば、お止めします。“王太子として”であれば、尚のことです」

正論だった。誰よりもそばにいる補佐官だからこそ、真っ直ぐな言葉を返してくる。

「……そうか」

窓の外を再び見やる。日はもう落ちかけていた。あの子が消えたのは、昼すぎのこと。すでに、半日が経とうとしている。

(どんなに焦っても、どれほど動きたくても──“俺が出れば、それで決まってしまう”)

王太子の一挙一動が、政の流れを変える。“アリシアの失踪”が単なる事件ではなく、王家を揺るがす“何か”だと証明することになる。

だから、動けない。自分の一挙一動が貴族たちの注目の的になっているのは知っている。17歳の王族、王太子に対する視線は厳しい。だが、それらを押しのけてでも妹を優先したい。そんな思いがあるのも間違いない。

(誰にどういわれてもいい。アリシアはたった一人の妹だ。気にかけて、どこが悪い……)

とはいえ、それは口にできることではないかもしれない。──今はまだ。

「……せめて、動いてくれる者がいるのなら、それを信じるしかないか」

その言葉に、リュシアンが小さく頷く。

「第六課に限らず、近衛、文官ともに、本件には全力で当たっております。殿下の御信頼に応えるべく──」

言葉は、静かに室内に満ちていった。だが、それでもなお、エドワルドの胸中にある焦燥は、完全には晴れなかった。執務室の空気が、わずかに張り詰めた。

「リュシアン。……すまないが、書簡を一本、起こしてくれ」
「宛先は?」
「後で俺が整える。ただ──“これを受け取った者は、王太子殿下の私的命により、即時、行動せよ”と」

補佐官の手が、わずかに止まる。王家の命令には、“公的命”と“私的命”の二種がある。後者は文書として残されることは少ない。けれど、それゆえに、信頼される者だけが従うことを許される命令だ。

「……誰を動かすかとはお訊ねしませんが。――本気なのですね?」

エドワルドは無言で頷いた。

「……あぁ。今の俺にできることは、これくらいしかない」

手紙は短く、簡潔だった。その内容に署名を入れ、封蝋を施す。刻印された“王家の私印”は、他の誰にも渡されていないもの。唯一、兄としての立場から“信頼する者”にのみ託す証。

「この件を、学園のセイル・クレイドへ。……彼なら、俺の“見たいもの”を、見てきてくれるはずだ」

リュシアンが、わずかに目を見開いた。セイル──今年、王立学園を首席で合格した麒麟児。庶民の出ながら、鋭い洞察と抜群の行動力を持ち、エドワルドが誰よりも信を置く相手。

そんな彼が、王太子宮へ招かれたことが一度だけある。その時、アリシア王女とは回廊ですれ違ったはず。──たしかに、たった一度のすれ違い。けれど、王女の面影は、あの男の記憶に残っているはずだ。

主である王太子が公式には動けない。それならば、確実に動けるだろう者に託すという判断に、間違いはない──そう、リュシアンは信じていた。

「この時間でしたら、自宅にいるでしょう。ですので、わたくしから個人的に届けます。……ただ、殿下。このことが表沙汰になれば、責任の所在は?」
「そのときは、俺が背負う。……いや、最初から、背負うつもりでいるよ。誰よりも“妹の兄”としてな」

その声音に、リュシアンは深く一礼した。

 

第5話 任を託して

その夜、王都の片隅にある、質素な屋敷の扉が、静かに叩かれた。応じたのは、一人の若者、セイル・クレイド。王立学園の新入生にして、首席合格者。だが、その実感もまだ曖昧なまま、目の前の来客に困惑する。

無言で差し出された封書。重厚な蝋の封と王家の印。手が震えそうになるのを、必死で抑えながら封を切る。中から出てきた書状は見慣れた王太子の筆跡。でも、いつもよりも乱れたような気配があった。

『……アリシアが、姿を消した』

最初の一文で、セイルの思考は一気に凍りついた。

「……は?」

かろうじて漏れた声は、情けないほど小さい。

──王女が、いなくなった。その事実が、今、自分にだけ知らされているという現実が恐ろしい。これは、ただの異変ではない。もっと深く、もっと重いものだ。

ふと、視線をあげた。使いの男は、一切名乗らず、ただ静かにこちらを見ている。だが、その物腰、身なり、気配──おそらく、王太子直属の人間だ。書状の続きに、こうあった。

『この件、外部に洩らすことは許されない。
まだ公にはなっていないし、そうするつもりもない』

『城内の近衛、侍女、そして文官たちが動いている。
ただ、それだけでは限界がある』

『──だから、君に頼みたい』

セイルは言葉を失った。庶民である自分に、それだけの力も、権限もない。むしろ、何かを嗅ぎまわれば、即座に潰されかねない立場だ。

「俺は……ただの学生です」

自然と出た声は、かすかに震えていた。だが、同時に書状から滲む強い意志──迷い、焦り、怒り、すべてを噛み殺した上で綴られた、“兄”としての願いに、心が揺れた。

『君には“見える視点”がある。
王族でも、文官でも、近衛でもない“君だからこそ”できることがあるはずだ。
君なら、噂に触れられる。王都の“裏の動き”を見てきてくれ。
貴族の噂は貴族の中でしか回らない。だが、庶民の噂は予想外の場所を走る。』

エドワルド自身の筆による言葉が続いていく。信頼。託された任。彼の視線が見える気がした。──誰も動けないなら、自分が動くしかない。

「……わかりました。できる範囲で、やってみます」

返答を聞いた男は、黙って一礼し、立ち去った。言葉はそれだけだった。命令もなければ、保障もない。だが、そこには明確な意思の共有があった。

 

◇◇◇

 

同じ夜、王城北棟。魔術局の解析室は、灯りが多いのに暗かった。
机上に置かれた鏡は、封印布を解かれたばかりだというのに、光を返すだけで、どこか“こちら”に馴染まない。

「空間の裂け目は……見当たらん」

年嵩の術師が、鏡面の縁を視線でなぞる。指は触れない。触れた瞬間に何が起こるか、誰も言い切れないからだ。

「……けれど、無でもない」

若い研究員が掌をかざし、眉を寄せた。

「薄い名残がある。……王宮術式の癖じゃありません」
「結界の内側でこれが起きるのは常識外だ」
「王女宮でだぞ」

言葉が室内の空気を硬くした。守護の内側で“消える”――それだけで異常だ。
責任者が短く命じる。

「帳を出せ。古式の照合だ。断じるな、まず拾え」
「……これ、北方の癖じゃないか?」
「いや、断言するな。似せてる可能性もある」

紙束が開かれ、古い記録が机に広げられる。灯りが揺れる。
鏡面は静かに光を返しているのに、そこだけが冷たい。

「……古式に寄ってます」

研究員の声が乾いた。

「ただ、どこの系統かは――まだ言えません。癖が散ってる」
「散ってる?」
「混ぜてるのか、崩してるのか……“わざと汚してる”みたいに見えます」

汚す。隠す。撹乱する。
技術よりも、意志の匂いがした。

「いや、それよりも、この術式は合わせ鏡じゃ?」

若い研究員の声に全員がハッとなる。

「たしかに……それなら、名残が薄いのもわかる」
「ならば、本体は?」
「おそらくは、あの部屋すべて……」
「王妃様のお部屋ですよ? ありえるのですか?」

焦ったような声が漏れる。それに対して年嵩の術師が鷹揚にうなずいた。

「ありえる」

彼は手鏡の縁をなでながら言葉を続ける。

「合わせ鏡の術式なら、使える術師は限られる。そして、その者の所属も……わかる」

その声に誰もが息をのむ。ありえないと思いつつも術式は間違いない。だからこそ、空気は重くなる。責任者が息を吐いた。

「今夜の結論はひとつ。これは“王宮の中で起きていい術”じゃない。
――続きは夜明けからだ。記録を残せ。照合を回せ。お部屋の精査の許可を取れ。明日中に“言葉”にして出す」

灯りが鏡面に淡く揺れていた。
向こう側が、まだ閉じ切っていない気配だけが残る。

 

◇◇◇

 

「……解析、まとまりました」

王城北棟、魔術局の小部屋。
報告を受ける席にいたのは、王太子付きの側近、セシル・リドレーだった。炎月六日の夕刻。王城の空気は、昼を挟んでなお冷えたままだ。

「確度は?」

セシルは紙から目を上げずに問う。

「媒体は鏡。術式は古式です」

術師が言い切る。昨日の“推測”ではない、報告の口調だった。

「北方教会で用いられていた紋式を骨に、改変が加えられています」
「北方教会系か」
「はい。癖が同じです。……ただし、そのままではありません」

術師は一拍置き、次の札を差し出した。

「媒体の鏡はただの入り口でした。それも、王族の内部魔力にしか反応しない術式。
恐れ多くも、亡き王妃様のお部屋全体を魔法陣としておりました」

セシルの指先が、わずかに止まった。
北方。内部魔力。魔法陣。
言葉が揃った瞬間、敵は“偶然”ではなくなる。

「繋ぎ先は」
「断定はできません。ただ――距離は中程度。遠すぎない。王都から“消す”には十分で、監視を置くには近い」
「王都外縁……あるいは周辺」
「はい。隔離に向く地形が妥当です。山間。小規模な屋敷や山荘」

術師が、もう一枚の書付を差し出す。

「符合する地が一か所。王都郊外、名義上は貴族保有地の山荘です。表の持ち主は別人ですが――裏に手がいる」
「裏の名は」

セシルが、はっきり言わずに問う。術師も、はっきりとは言わない。

「……関与を疑うべき名は、フォーゲル家です」

短い沈黙ののち、続ける。

「……さすがに、あの一族を……軽くは扱えません」

セシルは、ようやく紙から目を離した。

「……やはり、その名か」

敵の名を口にした瞬間、宮廷の世界は狭くなる。動かせば波紋は貴族へ、王家へ返ってくる。だが――だからといって、止まれない。

「王太子殿下へ。今すぐだ」

セシルは立ち上がる。椅子が静かに鳴った。

「“線が出た”と。正式に動くための――言葉が揃った、と伝えろ」

 

◇◇◇

 

報告を受けたエドワルドは、紙片を一度だけ見つめ、ゆっくりと息を吐いた。

「……これで、“任”として命じられる」

穏やかな声だった。だが、迷いはなかった。迷いが残っていれば、王太子は決断できない。だからこそ――決断の声は冷たくなる。

「グラナート公に通達を。王女殿下の安否確認と確保を最優先。抵抗があれば排除を許可する」
言葉を区切るたび、室内の空気が硬くなる。

「王家の名において」

たった一人の妹。
まだ十年しか生きていない少女。
その命が、宮廷の都合で軽くなることだけは――許されない。
動けば、宮廷は割れる。それでも、止まれない。
――その日、王城の灯りは、二晩目も消えなかった。

 

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