第5話 任を託して
その夜、王都の片隅にある、質素な屋敷の扉が、静かに叩かれた。応じたのは、一人の若者、セイル・クレイド。王立学園の新入生にして、首席合格者。だが、その実感もまだ曖昧なまま、目の前の来客に困惑する。
無言で差し出された封書。重厚な蝋の封と王家の印。手が震えそうになるのを、必死で抑えながら封を切る。中から出てきた書状は見慣れた王太子の筆跡。でも、いつもよりも乱れたような気配があった。
『……アリシアが、姿を消した』
最初の一文で、セイルの思考は一気に凍りついた。
「……は?」
かろうじて漏れた声は、情けないほど小さい。
──王女が、いなくなった。その事実が、今、自分にだけ知らされているという現実が恐ろしい。これは、ただの異変ではない。もっと深く、もっと重いものだ。
ふと、視線をあげた。使いの男は、一切名乗らず、ただ静かにこちらを見ている。だが、その物腰、身なり、気配──おそらく、王太子直属の人間だ。書状の続きに、こうあった。
『この件、外部に洩らすことは許されない。
まだ公にはなっていないし、そうするつもりもない』
『城内の近衛、侍女、そして文官たちが動いている。
ただ、それだけでは限界がある』
『──だから、君に頼みたい』
セイルは言葉を失った。庶民である自分に、それだけの力も、権限もない。むしろ、何かを嗅ぎまわれば、即座に潰されかねない立場だ。
「俺は……ただの学生です」
自然と出た声は、かすかに震えていた。だが、同時に書状から滲む強い意志──迷い、焦り、怒り、すべてを噛み殺した上で綴られた、“兄”としての願いに、心が揺れた。
『君には“見える視点”がある。
王族でも、文官でも、近衛でもない“君だからこそ”できることがあるはずだ。
君なら、噂に触れられる。王都の“裏の動き”を見てきてくれ。
貴族の噂は貴族の中でしか回らない。だが、庶民の噂は予想外の場所を走る。』
エドワルド自身の筆による言葉が続いていく。信頼。託された任。彼の視線が見える気がした。──誰も動けないなら、自分が動くしかない。
「……わかりました。できる範囲で、やってみます」
返答を聞いた男は、黙って一礼し、立ち去った。言葉はそれだけだった。命令もなければ、保障もない。だが、そこには明確な意思の共有があった。
◇◇◇
同じ夜、王城北棟。魔術局の解析室は、灯りが多いのに暗かった。
机上に置かれた鏡は、封印布を解かれたばかりだというのに、光を返すだけで、どこか“こちら”に馴染まない。
「空間の裂け目は……見当たらん」
年嵩の術師が、鏡面の縁を視線でなぞる。指は触れない。触れた瞬間に何が起こるか、誰も言い切れないからだ。
「……けれど、無でもない」
若い研究員が掌をかざし、眉を寄せた。
「薄い名残がある。……王宮術式の癖じゃありません」
「結界の内側でこれが起きるのは常識外だ」
「王女宮でだぞ」
言葉が室内の空気を硬くした。守護の内側で“消える”――それだけで異常だ。
責任者が短く命じる。
「帳を出せ。古式の照合だ。断じるな、まず拾え」
「……これ、北方の癖じゃないか?」
「いや、断言するな。似せてる可能性もある」
紙束が開かれ、古い記録が机に広げられる。灯りが揺れる。
鏡面は静かに光を返しているのに、そこだけが冷たい。
「……古式に寄ってます」
研究員の声が乾いた。
「ただ、どこの系統かは――まだ言えません。癖が散ってる」
「散ってる?」
「混ぜてるのか、崩してるのか……“わざと汚してる”みたいに見えます」
汚す。隠す。撹乱する。
技術よりも、意志の匂いがした。
「いや、それよりも、この術式は合わせ鏡じゃ?」
若い研究員の声に全員がハッとなる。
「たしかに……それなら、名残が薄いのもわかる」
「ならば、本体は?」
「おそらくは、あの部屋すべて……」
「王妃様のお部屋ですよ? ありえるのですか?」
焦ったような声が漏れる。それに対して年嵩の術師が鷹揚にうなずいた。
「ありえる」
彼は手鏡の縁をなでながら言葉を続ける。
「合わせ鏡の術式なら、使える術師は限られる。そして、その者の所属も……わかる」
その声に誰もが息をのむ。ありえないと思いつつも術式は間違いない。だからこそ、空気は重くなる。責任者が息を吐いた。
「今夜の結論はひとつ。これは“王宮の中で起きていい術”じゃない。
――続きは夜明けからだ。記録を残せ。照合を回せ。お部屋の精査の許可を取れ。明日中に“言葉”にして出す」
灯りが鏡面に淡く揺れていた。
向こう側が、まだ閉じ切っていない気配だけが残る。
◇◇◇
「……解析、まとまりました」
王城北棟、魔術局の小部屋。
報告を受ける席にいたのは、王太子付きの側近、セシル・リドレーだった。炎月六日の夕刻。王城の空気は、昼を挟んでなお冷えたままだ。
「確度は?」
セシルは紙から目を上げずに問う。
「媒体は鏡。術式は古式です」
術師が言い切る。昨日の“推測”ではない、報告の口調だった。
「北方教会で用いられていた紋式を骨に、改変が加えられています」
「北方教会系か」
「はい。癖が同じです。……ただし、そのままではありません」
術師は一拍置き、次の札を差し出した。
「媒体の鏡はただの入り口でした。それも、王族の内部魔力にしか反応しない術式。
恐れ多くも、亡き王妃様のお部屋全体を魔法陣としておりました」
セシルの指先が、わずかに止まった。
北方。内部魔力。魔法陣。
言葉が揃った瞬間、敵は“偶然”ではなくなる。
「繋ぎ先は」
「断定はできません。ただ――距離は中程度。遠すぎない。王都から“消す”には十分で、監視を置くには近い」
「王都外縁……あるいは周辺」
「はい。隔離に向く地形が妥当です。山間。小規模な屋敷や山荘」
術師が、もう一枚の書付を差し出す。
「符合する地が一か所。王都郊外、名義上は貴族保有地の山荘です。表の持ち主は別人ですが――裏に手がいる」
「裏の名は」
セシルが、はっきり言わずに問う。術師も、はっきりとは言わない。
「……関与を疑うべき名は、フォーゲル家です」
短い沈黙ののち、続ける。
「……さすがに、あの一族を……軽くは扱えません」
セシルは、ようやく紙から目を離した。
「……やはり、その名か」
敵の名を口にした瞬間、宮廷の世界は狭くなる。動かせば波紋は貴族へ、王家へ返ってくる。だが――だからといって、止まれない。
「王太子殿下へ。今すぐだ」
セシルは立ち上がる。椅子が静かに鳴った。
「“線が出た”と。正式に動くための――言葉が揃った、と伝えろ」
◇◇◇
報告を受けたエドワルドは、紙片を一度だけ見つめ、ゆっくりと息を吐いた。
「……これで、“任”として命じられる」
穏やかな声だった。だが、迷いはなかった。迷いが残っていれば、王太子は決断できない。だからこそ――決断の声は冷たくなる。
「グラナート公に通達を。王女殿下の安否確認と確保を最優先。抵抗があれば排除を許可する」
言葉を区切るたび、室内の空気が硬くなる。
「王家の名において」
たった一人の妹。
まだ十年しか生きていない少女。
その命が、宮廷の都合で軽くなることだけは――許されない。
動けば、宮廷は割れる。それでも、止まれない。
――その日、王城の灯りは、二晩目も消えなかった。

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