第4話 動けぬ兄
――動けない。
その事実が、何よりも彼を苛立たせていた。
本来なら、自分が現場に立てばいい。王女宮の封鎖、証言の整理、近衛の動員。剣を抜く必要すらない。“王太子が動く”というだけで、止まっている歯車は一斉に回り出すはずだった。
なのに、今、許されているのは「座して待つ」ことだけ。
執務室には灯が点り、窓の外には炎月の空が広がっている。日が傾き、昼と夜の境が曖昧になる刻限――いつもなら、学園の講義を終え、政務の報告を片づけ、翌日の予定を確認している時間だ。
今日は、違う。
机の上には、書簡と報告書が積まれていた。近衛隊から、文官局から、宰相付きから、女官長付きから。誰もが一斉に“王女殿下の失踪”に関する紙を上げてくる。だが、それらは結局、同じところを回っているだけだった。
「……つまり、決定打がない」
呟いて、エドワルドは紙束に視線を落とす。書かれているのは、断片と、推測と、責任回避の言い回し。
――魔術痕跡なし。
――転移の気配なし。
――結界反応なし。
どれも、ありえない。
妹が“消えた”。それが事実なら、何かが残るはずなのに。
椅子の背に手をつき、立ち上がる。静かに音を立てて床を踏み、窓辺へ歩み寄った。王城の中庭が見える。芝生の緑、その先にある南塔――王女宮のある一角。
(……アリシア)
昨日まで、いや、数時間前まで笑っていた妹が、忽然と姿を消した。10歳の少女だ。飛び出す理由も、飛び出す力もない。
――誰かが、仕組んだ。
考えたくない言葉が、胸の奥で形になる。王宮の内側で、痕跡を残さずに。しかも、王妃の部屋を利用して。
そこまで考えたところで、喉の奥が熱くなった。
(……行かせてくれればいいものを)
ほんの小さな声だった。けれど、部屋の静けさがそれを拾い、窓にぶつかって消えた。
父王と対峙したときの声が、脳裏をよぎる。
『心配、せぬはずが……ないだろう!』
怒りではない。あれは、苦しげに胸の奥を押し殺した――父親の声だった。
だからこそ、理解している。
王太子が現場に出る意味は、単なる“捜索”ではない。王家が公式に介入するという宣言だ。世論が動く。貴族が動く。敵も動く。
もし、それが王女の失踪なら――政治的な波紋は、計り知れない。
(……わかってる。わかっては、いる)
拳を握る。爪が掌に食い込み、痛みが残る。
それでも。
それでも、行きたい。
妹のところへ。自分の目で、現場を見たい。自分の手で、確かめたい。そうしなければ、息ができない。
――ノックの音がした。
控えめで、しかし迷いのない回数。王太子付きの者だけが知る合図。
「……入れ」
返事をした声は、思っていたよりも平静だった。だが、扉の向こうの気配が、いつもと違うことだけはわかる。報告か。あるいは――許されぬはずの、何か。
声をかけると、すぐに扉が開き、若い文官が頭を下げながら入室する。王太子付きの補佐官、リュシアン。年若いが冷静沈着な性格で、学業と政務を両立する彼の片腕とも言える存在だった。
「殿下、記録課より最新の記録が届いております。応接室での聴取、ひとまずの要約とのことです」
「……“あの男”が動いたか」
「はい。記録課のエグバート・グランヴィル殿が現場を指揮し、侍女のひとり──エルマ殿を拘束。聴取のために一室へ移送したそうです」
名を聞いた瞬間、眉がわずかに動く。
「……やはり、来たか」
口の端にだけ、わずかな笑みが浮かぶ。
「他の文官たちには多少の混乱もあったようですが、現場の統率は──殿下の御名のおかげで、という形で落ち着いたようです」
「彼を呼ぶよう指示したのは俺だ。文官たちへの対応は、正しかった」
軽く肩をすくめるように、苦笑混じりでそう答えた。だが、なによりも重要なのは、彼の介入によって現場が混乱から一歩抜け出したという事実だった。それだけでも、充分に意味がある。そう思いながら、エドワルドは、無理を承知で問いかける。
「……リュシアン、もし俺が本気で“現場に出る”と言ったら──おまえは、止めるか?」
唐突な問いだった。だが、補佐官はわずかに目を伏せたあと、静かに答える。
「殿下のご判断が“兄として”のものならば、お止めします。“王太子として”であれば、尚のことです」
正論だった。誰よりもそばにいる補佐官だからこそ、真っ直ぐな言葉を返してくる。
「……そうか」
窓の外を再び見やる。日はもう落ちかけていた。あの子が消えたのは、昼すぎのこと。すでに、半日が経とうとしている。
(どんなに焦っても、どれほど動きたくても──“俺が出れば、それで決まってしまう”)
王太子の一挙一動が、政の流れを変える。“アリシアの失踪”が単なる事件ではなく、王家を揺るがす“何か”だと証明することになる。
だから、動けない。自分の一挙一動が貴族たちの注目の的になっているのは知っている。17歳の王族、王太子に対する視線は厳しい。だが、それらを押しのけてでも妹を優先したい。そんな思いがあるのも間違いない。
(誰にどういわれてもいい。アリシアはたった一人の妹だ。気にかけて、どこが悪い……)
とはいえ、それは口にできることではないかもしれない。──今はまだ。
「……せめて、動いてくれる者がいるのなら、それを信じるしかないか」
その言葉に、リュシアンが小さく頷く。
「第六課に限らず、近衛、文官ともに、本件には全力で当たっております。殿下の御信頼に応えるべく──」
言葉は、静かに室内に満ちていった。だが、それでもなお、エドワルドの胸中にある焦燥は、完全には晴れなかった。執務室の空気が、わずかに張り詰めた。
「リュシアン。……すまないが、書簡を一本、起こしてくれ」
「宛先は?」
「後で俺が整える。ただ──“これを受け取った者は、王太子殿下の私的命により、即時、行動せよ”と」
補佐官の手が、わずかに止まる。王家の命令には、“公的命”と“私的命”の二種がある。後者は文書として残されることは少ない。けれど、それゆえに、信頼される者だけが従うことを許される命令だ。
「……誰を動かすかとはお訊ねしませんが。――本気なのですね?」
エドワルドは無言で頷いた。
「……あぁ。今の俺にできることは、これくらいしかない」
手紙は短く、簡潔だった。その内容に署名を入れ、封蝋を施す。刻印された“王家の私印”は、他の誰にも渡されていないもの。唯一、兄としての立場から“信頼する者”にのみ託す証。
「この件を、学園のセイル・クレイドへ。……彼なら、俺の“見たいもの”を、見てきてくれるはずだ」
リュシアンが、わずかに目を見開いた。セイル──今年、王立学園を首席で合格した麒麟児。庶民の出ながら、鋭い洞察と抜群の行動力を持ち、エドワルドが誰よりも信を置く相手。
そんな彼が、王太子宮へ招かれたことが一度だけある。その時、アリシア王女とは回廊ですれ違ったはず。──たしかに、たった一度のすれ違い。けれど、王女の面影は、あの男の記憶に残っているはずだ。
主である王太子が公式には動けない。それならば、確実に動けるだろう者に託すという判断に、間違いはない──そう、リュシアンは信じていた。
「この時間でしたら、自宅にいるでしょう。ですので、わたくしから個人的に届けます。……ただ、殿下。このことが表沙汰になれば、責任の所在は?」
「そのときは、俺が背負う。……いや、最初から、背負うつもりでいるよ。誰よりも“妹の兄”としてな」
その声音に、リュシアンは深く一礼した。

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