第5話 届かない声

「ゼノ様、これにも署名がいりますの?」

思わず胸を突かれる。今の問いは──確かに、自分に向けられたものだった。
それだけで、なぜこんなにも胸が熱くなるのだろうか。
今日は異例ともいれる記録室への訪問。しかし、それも仕方がないものだったろう。

『記録室に保管されている書類に王女殿下の署名が必要になっております。ただ、少しばかり秘匿性の高い文書なので、できるならばお出ましいただきたい』

このような連絡があったからだった。そして、問題の書類はゼノから見てもたしかに秘匿性の高い内容。それらを一枚ずつ丁寧に手に取っているアリシア。彼女は侍女が差し出す筆を受け取ると、所定の欄にさらりと署名を記していた。

署名の合間にたまに向けられる視線。
──その先には、セイル・クレイドの姿があった。

若き補佐官は、相も変わらずの丁寧な口調で、提出資料の分類についてフロイと議論している最中だった。落ち着いた声音と、理路整然とした言葉運びだけが室内に響いている。

そんな時、アリシアの無邪気な声が記録室の中に響いていた。

「セイル、こっちの書類にもわたくしの署名がいるの?」

そう言って、王女は一枚の帳票を差し出した。その声音は、あまりにも自然で、あまりにも当たり前に、彼の名を呼ぶ。

「確認いたしますので、少々お待ちいただけますか──」

セイルはすぐに応じ、会話は数往復で完結した。事務的で、淡々としたやり取り。だが、傍から見ていたゼノには、それがむしろ親密にさえ思えた。

当たり前に言葉を交わし、当たり前に通じ合っている。

──そんなものを見せられて、胸が軋まないわけがない。

(……違う、と言えるか?)

心の中で、誰にともなく問う。

まだ始まりきっていない。そう思っていた。あの男は“王女付き”の補佐官であり、王太子の私的裁量で任命された臨時の側近。つまりは、ただの部外者。そう言い聞かせてきた。

だが──

あのときアリシアが、迷わず「ありがとう」と告げたのは誰だったか。

あの時の山荘の地下室。抱き上げた腕の中で告げられた声は、ゼノだけではなく、セイルにも向けられていた。

(……気づいていなかったわけじゃない。ずっと……)

気づかぬふりをしていた。彼女の視線が、名前が、声音が。少しずつ、けれど確実に“そちら”に向いていることに。

けれど、それはまだ……“焦り”で済むと思っていたのだ。

 

◇◇◇

 

書類の確認が進むにつれて、記録室の中も次第に落ち着きを取り戻していた。
侍女が控え、フロイとセイルが書類の突き合わせをしている。書記官らしい几帳面な調子で、「この書式は第五様式で統一されています」「ただ、備考欄の書き方に微差があるので……」などと低い声で説明が交わされていた。

「署名は、ここで最後ですわね?」

アリシアがフロイに問いかけ、侍女に手渡された書類を軽く持ち上げる。

「はい、王女殿下。こちらで最後となっております」
「よかった。あまり長居すると、邪魔になってしまいますものね」

そう言いながら、アリシアは笑みを浮かべた。
それは──まぎれもなく、あの時と同じ微笑みだった。

ゼノは言葉を飲み込んだ。
今、口を挟むことは許されないと、本能が告げている。

「リースフェルト文官、提出は本日中でしょうか?」
「ええ、夕刻までに政務棟へ回したいと思っています」
「では、その後に王女殿下からの一筆を添えて……」
「形式としては必要ありませんが、あれば尚よし、といったところですな」
「では、そのように手配いたします」
「助かります」

フロイとセイルの静かなやり取りも続いている。
それを見ていたアリシアが、セイルの方へと歩み寄る。

「……この文書は、来月の視察に関わるものですの?」
「はい。その予定で調整されております」
「そうなのね。いつも、ありがとう」

穏やかな調子でアリシアが告げる。それに対して、セイルはわずかに目を伏せた。

 
「もったいないお言葉です」

──この光景を、なんと呼ぶのか。ゼノには、それがわからなかった。

親密? 信頼?
ただの補佐官と主君の関係?
それとも──自分の居場所が、もう隣ではないという証明?

いつからだろう。彼女が、こちらを見ない時間が増えたのは。
いつからだろう。名前を呼ばれなくなったのは。

あの声が、自分に向けられることは、もうないのかもしれない。

「グラナート殿?」

不意に名前を呼ばれ、顔を上げた。だが、それはアリシアではなかった。フロイだった。

「……失礼。少し考えごとを」

そう応じながらも、胸の内では別の感情が燻っていた。

 
名を呼ばれるということ。言葉を交わすということ。それらすべてが、自分の手の届かぬ場所に移りつつある。

(……選ばれるのは、名を呼ばれた者)

アリシアの視線の先が、明確に“そちら”を向いているとしたら──

……もう、“護る”だけでは、届かないのかもしれない。

「王女殿下、本日はお時間をいただきありがとうございました」

文官が感謝を述べる言葉を告げる。
それに対してアリシアは軽く頷くと、侍女と一緒に出口へと向かう。その姿を、誰もが自然に見送っていた。
数歩、進んでは振り返る。控える侍女とセイルがその隣に並ぶようにして歩いていた。

本来なら──自分も、あの背に付き従うべきだった。
それが当然だったはずだ。けれど、足が動かない。
わずかな距離が、なぜか埋められないまま、ただ見送っていた。

扉の前で、アリシアがふと立ち止まった。
その動作に、思わず息を呑む。

「ゼノ様……ありがとうございました」

一瞬の間のあと、続けられたのは、ごく当たり前の言葉だった。

「今日も、ご一緒いただけて……嬉しかったですわ」

小さな微笑み。けれど、それはまるで──“区切り”を告げるもののようだった。

──扉が閉まる。

記録室の中には、書類をめくる音と、羽ペンの走るかすかな気配だけが残された。

その静けさの中、ゼノは視線を伏せた。

(……もう、護衛という立場では届かない)

これまでは守ることが役目だった。王女の身を守り、立場を守り、日常を守る。けれど、それだけでは彼女の“視線の先”には届かない。

セイルは、護っていない。ただ、隣で言葉を交わし、書類を扱い、政務の場に立ち会っている。そして、そこに自然とアリシアの“声”が向けられている。

名を呼ばれる者。言葉を交わす者。日々の積み重ねが、“隣にいる者”を変えていく。

(……彼女の隣に在りたいと願うなら)

それは、もう剣を携えていては辿りつけない場所だ。

ゼノ・グラナートという人間が、ただ“護衛”であってはならない。
静かに深く、息を吐く。胸の内で、ひとつの線が引かれる。

──もう、護衛ではいられない。

その決意が、ようやく言葉になる前に。いつの間にか戻ってきていた記録課の責任者が、控えめに声をかけてきた。

「本日の書類、これにて提出完了でございます。……グラナート殿?」

ゼノは顔を上げた。その目に、迷いはなかった。

「……ああ。ありがとうございました」

少しだけ、表情が緩む。

その笑みは、どこか静かで、どこか切実で──そして、何よりも決意に満ちていた。

 

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