王太子殿下の婚約欄が、今日も空白な件について

「──で、本日の進捗報告は?」

書類の山に埋もれながら、庶務課第四記録室の主任代理・エグバートは、湯気の立つマグカップを片手にぼそりと尋ねた。

「おおむね問題ありません。ただし、例の件を除いては」

まっすぐ返すのは、今年度採用の新人文官・フィアネス。
まだ襟の折り目も固い制服姿で、きっちりと書類を差し出した。

「例の件、ねぇ」

エグバートは書類を受け取り、一枚一枚めくっていく。
査定状況、提出数、婚約進捗──そして、王族関係。

「……空欄だな」
「ええ。王太子殿下の婚約欄、今月も記載なしです」

無表情でそう言ったフィアネスだが、どこか不服そうだ。

「というか、候補一覧のページ……これ、全部斜線が引かれてるじゃないですか」
「あ―、それな」

エグバートが面倒くさそうに頭をかいた。

「前任の人、全部通したんだけどな。五人とも“事情により見送り”だってよ」
「その“事情”って、記録に?」
「残ってるわけないだろ。“察せ”って付箋が貼ってあった」
「……公文書、ですよね?」

フィアネスの言葉に、エグバートは真顔で頷く。

「おう。しかも、手書きでな」
「筆跡、見覚えありますか?」
「あるに決まってるだろ。王宮の“察せ”系文書の筆跡なんて一人しかいない」
「……王太子殿下」
「言うな言うな、命が惜しければな」

エグバートが慌てて窓のカーテンを引く。

「で、斜線は王宮直轄の訂正命令。候補の欄は“現在空白、追記予定なし”で確定した」
「それって……殿下の婚約、未定のままってことですか?」
「ま、そのうち何かあるかもな―。いや、ないかもな―」

どこか投げやりなエグバートの声に、ちょっと苛立ちを感じ始めたフィアネス。

「……主任代理。そんな言い方でいいんですか?」
「ま、大丈夫だろう。うちはそういう部署だし」

冗談めかしてエグバートが笑うが、その目は笑っていなかった。

「でも、本気で理由はわからないんですか?」
「知らん。知ってたら黙ってる。王宮の事情なんて、我々末端文官が知っていいことは何ひとつない」
「でも、王太子殿下の婚約が決まらないって、外交的にまずくないですか?」
「問題ないって」

エグバートの言葉に、フィアネスがちょっと体を固くする。

「問題、ない?」
「なにしろ、殿下の伯母君たちがすごすぎる」
「氷の公女と祈りの蛇……」
「わかってるじゃないか」

窓の外を見ながら、エグバートがぽつりとこぼした。

「ただまあ……あの“空欄”が、あそこにずっとあるのは……不思議でも、異常でも、ないらしい」
「誰にとっても?」
「さあな。少なくとも、我々にとっては、それが“平常運転”ってやつさ」

フィアネスは無言で書類を整えた。

「……提出、どうしますか?」
「午後の便で出しとけ。どうせ差し戻されるけどな」
「じゃあ、意味ないのでは?」
「あるさ。『提出した』という記録が残る」
「どこにですか?」
「この記録室の片隅と、この机の引き出しにな」

そう言って、エグバートはマグを持ち上げた。
湯気の向こう、提出トレイには“空欄”のままの進捗報告書。

「──我々はただ、今日も提出し、そっと差し戻されるだけである」

 

 

書類地獄にもどる

TOP